エラベノベル堂

終点の先、町は記憶を連れて

全年齢

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10章 / 全10

その夜、車庫へ戻ったあとも、悠真はしばらく運転台から立ち上がれなかった。昼の広場、老人の声、娘の赤い目元、窓越しに振られたたくさんの手。それらがまだ車内に残っている気がした。古い座席も、曇った窓も、今日はいつもより確かな意味を持ってそこにある。 翌朝、町は昨日の余韻のなかで目を覚ました。停留場の脇には、保存会の発起人を募る紙が増え、広場の記念碑にはもう新しい花が供えられていた。女将は朝から忙しそうに立ち働き、八百屋の店主は通りすがりの人に、今度は掃除の日を決めるんだと語っていた。廃線の予定は相変わらず変わらない。会社からも新しい知らせはない。それでも町の顔つきは、昨日までとは違っていた。失う日付を待つ顔ではなく、自分たちの手で残せるものを探す顔になっていた。 始発を出し、三つ目の停留場が近づく。悠真は無意識にミラーへ目をやった。あの老人が乗る場所だった。今日からはもう現れないかもしれない。約束は果たされたのだから。そう思いながら減速すると、停留場に立っていたのは老人ではなかった。 小さな男の子だった。昨日、母親と一緒に乗ってきた子で、両手で大事そうに何かを抱えている。乗り込んできた母親が会釈し、男の子は車内の中ほど、あの左側の窓際へちょこんと座った。膝の上にあったのは、色画用紙に描かれた路面電車の絵だった。歪んだ四角い車体の横に、たくさんの丸い顔が並び、窓の上には大きな字で、またのってねと書かれている。 悠真は一瞬、息をのんだ。老人の席だと思っていた場所に、まったく別の未来が座っている。 終点までのあいだ、男の子は何度も窓の外を指さし、母親に昨日ここでおじいちゃんがいた、あそこに人がいっぱいだったと興奮気味に話した。母親は困ったように笑いながらも、その声を止めなかった。車内にいた年配の乗客が、その席はいい席なんだよと声をかけると、男の子は誇らしそうに絵を見せた。 終点で降りる際、母親が言った。 昨日帰ってから、この子、ずっと電車の話ばかりで。また乗るって、朝から聞かなくて。 男の子は運転台へ向かって絵を高く掲げた。 これ、でんしゃにあげる。 悠真は受け取り、ありがとうございます、と頭を下げた。紙の端には不器用な丸文字で、みらいごうと書いてあった。 折り返しの前、野末がその絵をのぞき込み、鼻で笑うように言った。 保存車両の名前、決まったな。 悠真は思わず顔を上げた。野末は肩をすくめる。 さっき所長が来てた。正式な存続は無理でも、一両は町に残す方向で市と話すらしい。昨日の騒ぎが思ったより大きくなった。観光だの展示だの、いろいろ考えるんだとよ。 悠真はしばらく言葉を失った。路線そのものがそのまま未来へ続くわけではない。けれど、なくなるだけのはずだった電車に、残るという別の行き先が生まれていた。 発車時刻が来る。運転台の脇には、男の子の描いた絵をそっと立てかけた。レールの先はいつか途切れる。けれど町の記憶までそこで終わるわけではない。老人が果たした約束は、過去を閉じるためではなく、その続きを誰かに手渡すためのものだったのだ。 ベルを鳴らす。電車は朝の光のなかへ滑り出す。あの席にはもう同じ人は座らない。それでも窓のそばには、確かに新しい物語の影が揺れていた。

検閲済みプロット

廃線寸前の地方都市の路面電車を舞台に、新人運転士が毎朝同じ席に座る無口な老人の大切な最終乗車の目的を知り、町の思い出と人々のつながりを取り戻していく心温まる再生の物語。

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