エラベノベル堂

終点の先、町は記憶を連れて

全年齢

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10章 / 全10

朝の光が車庫の屋根をやわらかく撫でていた。最終運行の始発駅には、まだ早いはずの時間なのに、もう町じゅうの気配が集まっていた。花の匂い、カメラのシャッター音、誰かが押し殺した笑い声。その全部が、線路の上でひとつに重なっている。 新は運転席に立ちながら、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。 「……本当に、来たんですね」 隣で先輩が腕を組む。 「来るさ。こういう日は、みんな目が覚める」 「でも、こんなに」 「それだけ、この電車が町に残してきたものがあるってことだ」 車内をのぞけば、写真立てのように飾られた思い出があった。窓辺には古い切符や手紙、誰かが丁寧に折った時刻表。座席の端には花が添えられ、いつもの車内が静かな祭りみたいに見える。 「新」 呼ばれて振り向くと、章吾がそこにいた。いつもの席へ、何も言わずに腰を下ろす。白い髪も、背筋の伸び方も、昨日までと変わらない。けれど、その横顔はどこか穏やかだった。 「座ってくれて、ありがとうございます」 「礼を言うのはこっちだ」 章吾は窓の外を見た。沿線に並んだ人々が、花を抱え、手を振り、じっとこちらを見ている。 発車の合図が鳴る。新は深く息を吸った。 「発車します」 その声に、車内の空気がふっと揺れた。電車はゆっくり動き出す。景色はいつもの町なのに、今日は違って見える。過去と今が、窓ガラスの向こうで重なって流れていく。 「きれいだな」 章吾の低い声がした。 「ええ。すごく」 新はうなずく。沿線では子どもが跳ねるように手を振り、店主たちが帽子を上げる。誰かが写真を掲げ、誰かが花を胸に抱く。車内に並ぶ思い出は、走るたびに少しずつ温度を持っていく。 終点が近づくころ、新は自然と息を詰めていた。長いようで短かった一周が、やがて静かに終わる。扉が開き、人々の声が遠く近くに満ちた。 「章吾さん」 だが、返事はない。 新が振り返ったとき、いつもの席は空いていた。 「……え」 窓の外にも、ホームにも、姿は見えない。さっきまで確かにそこにいたはずなのに、章吾だけがすっと夜明けの霧みたいに消えていた。 新は息をのんで座席を見下ろす。そこに、折りたたまれた小さなメモが残されていた。 新へ。 この町は電車で走るのではなく、人の記憶で走り続ける。 だから、もう大丈夫だ。 文字を追ううちに、新の視界が滲む。だが、泣いている暇はない。胸の奥で、何かが確かに立ち上がっていた。 「……そういうことですか」 先輩がそっと肩を叩く。 「受け取れ」 新はメモを握りしめた。保存される電車のことも、この町を語る役目も、まだ終わっていない。 「保存車両の運転、俺がやります」 自分の声が、思ったよりはっきり響いた。 先輩が少し目を細める。 「言ったな」 「はい。これからは、走らせるだけじゃなくて、伝えます」 ホームの向こうでは、人々が静かに見送っている。新は最後にもう一度だけ町を見渡し、メモを胸ポケットへしまった。朝の空気は、さっきより少しだけ軽い。電車は止まっても、この町の話はまだ終わらない。新はそう思いながら、語り部として歩き出した。

検閲済みプロット

地方都市の路面電車が廃線の危機にある中、新人運転士が、毎朝同じ席に座る無口な老人の『最後の乗車計画』を知り、町の記憶をつなぐ再生劇。

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