夕刻の便が商店街の前を通るころには、広場で交わされた約束がもう町のあちこちへ散っていた。停留場の掲示板には誰かが手書きで、記念碑の清掃を続けませんかと小さく書いた紙を貼り、和菓子屋の軒先では女将が、昔の写真があれば見せておくれと客に声をかけている。ほんの数時間前まで、廃線を惜しむ気持ちはそれぞれの胸の内に沈んでいたのに、今日はそれが言葉になり、人づてに渡され、町の空気を少しだけ押し上げていた。悠真は運転台からその変化を見つけるたび、不思議な高揚を覚えた。何も決まってはいない。それでも、止まりかけたものが動き出す気配だけは確かにあった。 車内では老人と娘が並んだまま、時折短い会話を交わしていた。娘は写真立てを膝に載せ、指先でそっと縁をなぞる。老人は窓の外を見るふりをしながら、何度もその横顔を確かめているようだった。長く空いていた席に、ようやく人が戻ったような静かな落ち着きがあった。 終点の一つ手前で、老人が前へ歩いてきた。娘もあとに続く。料金箱の横に立つと、老人は帽子を取り、悠真に深く頭を下げた。 今日は、本当にありがとうございました。 悠真は慌てて首を振った。 自分は走らせただけです。 いいえ、と娘が言った。目元はまだ少し赤かったが、声は驚くほどまっすぐだった。 走らせただけじゃ、こうはならなかったです。父も、たぶん町も、今日みたいには戻れなかった。 その言葉に、悠真は返事ができなかった。胸の奥に熱いものが込み上げ、前を向くしかなかった。 やがて終点に着き、乗客たちは名残を惜しむようにゆっくり降りていく。老人も娘とともにホームへ下りた。ここで別れるのだと思ったそのとき、娘が立ち止まり、父の腕を軽く引いた。 ねえ、帰ろう。 どこへ、と老人が聞く。 家に。しばらく空けてたけど、片づけるの、私も手伝う。母さんの写真も、今日の写真の横に飾ろう。 老人は目を見開き、それから小さく笑った。その笑顔は広場で見せたものより、もっと私的で、もっと弱く、だからこそ深くあたたかかった。 ああ、とても助かる。 二人は並んで歩き出した。夕日の伸びた影が、ホームの上で一つにつながる。悠真は運転台の窓越しに、その背中が見えなくなるまで見送った。 野末が後ろからぼそりと言う。 路線が残るかどうかは、まだ先だな。 はい。 でも、あの人には今日が最終乗車じゃなくなったかもしれん。 悠真はその意味をゆっくり受け取った。亡き妻との約束を果たすための最後の一日だったはずが、娘と帰るための新しい一日になったのだ。終わりへ向かうだけと思われた電車が、気づけば一つの家族のこれからを運んでいた。 車庫へ戻るため、悠真は静かにマスコンを入れた。薄暮の線路が前へ伸びる。廃線の予定は消えない。けれど今日、町は別れの練習をやめ、残せるものを数え始めた。そして老人もまた、過去に会いに行った帰り道で、失っていないものを取り戻したのだ。 古い車両はレールの継ぎ目を越え、小さく揺れた。その響きは、長い物語の終止符ではなく、次の頁をめくる音に似ていた。
終点の先、町は記憶を連れて
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