雨は細い糸みたいに、車庫の屋根を叩き続けていた。終電後の沿線は人影もまばらで、街灯の光だけが濡れた線路をぼんやり照らしている。新は折りたたんだ呼びかけ文の束を抱え直し、章吾と並んで歩いた。 「こんな時間に配るなんて、誰も出てこないんじゃ」 「出てくるさ。町は、案外眠っていない」 章吾の声は落ち着いていた。新は半信半疑のまま、最初の店の戸を叩く。すると奥から、エプロン姿の商店主が顔を出した。 「電車のためなら、何をすればいい」 その一言に、新は言葉を失う。次の店も、角の文具屋も、学生寮の管理人も、皆それぞれに傘を持って外へ出てきた。呼びかけ文を受け取る手が増えるたび、雨音の向こうに別の熱が宿っていく。 「明日の最終運行、沿道に灯りを置きたいんだ」 新が説明すると、商店主がすぐにうなずいた。 「うちは提灯を出せるよ」 「うちは乾電池のランタンがある」 「学生たちで見回りできます」 少し前まで諦めを口にしていた人たちが、今夜は迷わない。新は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。章吾はその輪の端で、静かに頷いている。 「こんなに、集まるんですね」 「集まったんじゃない」 章吾が言った。 「もともと、ここにあったんだ」 その言葉に、新ははっとする。電車が人を運んでいたのではなく、人の記憶が電車を動かしていた。そう言われた気がした。 皆がそれぞれに役目を申し出て、明日の朝までに何をどこへ置くか、短い相談がまとまっていく。呼びかけ文は雨で少し湿ったが、それでも確かな重みを持って新の腕に残った。 ふと、章吾が自分のポケットを探る。新が何気なく視線を向けると、老人は小さなメモ帳を取り出した。表紙は使い込まれて角が丸い。 「章吾さん、それ……」 「見せるつもりはなかったんだがな」 章吾は苦くもない笑みを浮かべた。ページの端をめくる指が、少しだけ頼りない。 新は気づいてしまう。そこには、病院の名と手続きらしき記入が、すでに整えられていた。日付も、必要な項目も、もう埋まっている。 「入院、なんですか」 声がかすれた。雨の音が急に遠のいた気がする。 章吾は驚いたふうでもなく、メモ帳を閉じた。 「明日、少しだけ体を休める。そういう段取りだ」 「でも、最終運行は」 「だから今夜、こうしている」 新は息を呑む。老人は最初から、全部を知っていたのだ。走る電車のことも、町の人の気持ちも、そして自分の別れの時が近いことも。 「……乗客としてじゃない、ですね」 新が絞り出すと、章吾はゆっくり新を見る。 「お前はもう、そう思っていただろう」 否定できなかった。あの席に座る一人の常連ではなく、町の記憶そのものを抱えていた人。そう考えた瞬間から、章吾の背中は遠い存在になっていた。 「別れの準備、してたんですね」 「準備というほどのものでもない。だが、遅れるわけにはいかん」 新は唇を噛み、握っていた呼びかけ文の束を見下ろした。明日の灯りは、この町が章吾に返すものだ。だが、それで本当に届くのか。答えのない不安が、雨より冷たく胸に落ちる。 それでも章吾は、揺れる街灯の下でまっすぐ立っていた。 「さあ、帰るぞ。明日になれば、もっと忙しくなる」 新はうなずくしかなかった。濡れた路面に映る二人の影は、少しだけ近づいて、また静かに夜へ溶けていった。
終点の先、町は記憶を連れて
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