エラベノベル堂

火星の癖、嵐の証言

全年齢

小説ID: cmnenaun5004d01n38keanl49

1章 / 全10

朝比奈新は、観測ドームの透明な壁に額を寄せるようにして、人工大気の流れを映すモニターを見つめていた。火星の朝はまだ薄青く、基地の外では赤い砂が静かに身を伏せている。だが、その静けさこそが油断を誘う。新は指先で表示を送るたび、気圧、粒子密度、流速の折れ線が同じ場所で微かにうねるのに気づいた。 「また、ずれてる……」 独り言は、観測室の空調に飲まれて消えた。最初は誤差だと思った。火星では珍しくない。けれど、誤差にしては揺れ方が揃いすぎている。風向の変化が一拍遅れ、砂塵の濃い帯だけが、見えない指先で撫でたように右へ寄る。数値は毎回わずかだ。だが、そのわずかさが何度も同じ癖を描いていた。 新は別の記録を呼び出した。ひとつ前の観測、さらにその前。画面を重ねるたび、違和感は輪郭を持っていく。ばらけるはずの分布が、同じ角度で寄り、同じ強さで戻り、まるで何かが砂嵐の進み方をためしているようだった。 「乱流じゃない。いや、乱流だけじゃないな」 口にしてから、新は自分の声に苦笑した。気象は気まぐれだ。けれど、この揺れは気まぐれではなく、迷いにも似ている。基地の人工大気が、目に見えない何かに押されながら、同じ方向へ少しずつ傾いている。そう考えると背筋が冷えた。 新は観測記録の末尾に小さくメモを打ち込んだ。砂嵐の癖。ふざけた言い方に見えるかもしれない。それでも、まだ名前のない違和感を黙って見過ごすほうが怖かった。 「癖、ね。変な言い方だな」 自分で言いながら、彼は保存ボタンに触れた。もしこれがただの偶然なら、あとで笑えばいい。だが偶然にしては、繰り返しがあまりに整いすぎている。新は画面の端で揺れる赤い警告灯を見上げ、人工の空が今日も静かに息をしていることを確かめた。静かすぎるほどに。

1章 / 全10

TOPへ