エラベノベル堂

火星の癖、嵐の証言

全年齢

小説ID: cmnenaun5004d01n38keanl49

1章 / 全10

観測棟の東側スクリーンには、夜明け前の火星平原が赤黒い海のように広がっていた。大気はまだ薄く、空は地球の朝のように明るみきらない。それでも基地の気象制御塔が送り出す微細な熱と風の調整によって、居住区周辺だけはわずかに呼吸しやすい環境を保っている。相良トウマはその数字の海を毎朝見つめるのが仕事だった。温度勾配、粉塵濃度、上昇気流の角度、圧縮ドーム外縁の静電偏差。どれも見慣れた値であるはずなのに、その日の画面には喉に小骨が刺さるような違和感があった。 外部カメラの映像では、北西から流れてくる砂塵帯が基地手前で一度ほどけ、また細くまとまり直していた。ただの乱流と片づけるには、まとまり方が妙だった。自然の砂嵐なら、もっと無愛想に広がる。だが今、赤い粒子は見えない指先で撫でられているみたいに、同じ間隔で脈を打っている。 トウマは椅子を引き寄せ、三日前からのログを重ねた。時間をずらして比較すると、その癖はさらに露骨になった。波形の山がわずかに左へ滑り、次の瞬間には制御風路の出力変動と重なる。偶然にしては行儀がよすぎる。 「また睨めっこしてるの」 背後から声がして、トウマは肩越しに振り向いた。保守主任の蓮見ユナが、温い合成コーヒーのパックを二つ持って立っていた。夜勤明けらしい目の下の影があるのに、笑うと不思議と疲れて見えない。 「砂嵐が変なんだ」 「火星の砂嵐が変じゃない日なんてある?」 「そういう意味じゃない。動きに癖がある。しかも、制御層の応答と噛み合いすぎてる」 ユナはパックを机に置き、画面へ顔を寄せた。しばらく無言でグラフを追ってから、軽く眉をひそめる。 「これ、外の風だけでこうなるかな」 「ならないと思う。むしろ内側が外を引っ張ってる感じだ」 基地全体を包む人工気候制御システムは、まだ未完成の火星環境に無理やり秩序を教え込む巨大な楽器みたいなものだった。熱交換塔が拍を刻み、圧力膜が音程を支え、地下循環路が低音を受け持つ。どこか一つでも調子を外せば、和音はすぐに濁る。トウマの仕事は、その濁りを誰より早く聞き取ることだった。 彼は過去二十四時間の観測を拡大し、砂塵帯の蛇行幅を数値化した。揺れは微小だが、一定間隔で強まっている。しかも増幅の周期が、制御塔の補助ポンプの自律調整サイクルと近い。胸の奥で、嫌な記憶がうっすら形を取る。研修時代、旧南区画の温度暴走事故を学んだとき、教官が言っていた。大きな異常は、いつだって最初は小さな癖の顔をして現れる、と。 ユナが低く言った。 「報告、上げる?」 トウマは即答できなかった。基地運営企業のヘリオス・フロンティアは、最近ようやく地球向けの広報で安定稼働を大々的に打ち出し始めたばかりだ。ここで気候制御の不穏な兆候を出せば、現場はまた数字合わせに追われる。だが、見なかったことにしていい揺れでもない。 スクリーンの向こうで、遠い地平線がふっと霞んだ。砂塵帯の先端が、まるで基地の輪郭を確かめるようにゆっくり曲がる。その滑らかさに、トウマの背筋が冷えた。自然現象を見ているはずなのに、こちらの呼吸をうかがう生き物に見えたのだ。 彼は報告フォームを開き、異常兆候の欄に指を置いた。 ただの勘なら笑われる。だが経験は、勘の姿を借りて警報を鳴らすことがある。 送信前、最後に最新データが更新された。粉塵濃度がわずかに上昇し、制御層境界の静電偏差が基準値の外縁をなぞる。赤い警告色はまだ点かない。それなのに、トウマには見えた気がした。巨大な仕組みのどこかで、まだ音にならない亀裂が、静かに口を開け始めているのを。

1章 / 全10

TOPへ