エラベノベル堂

火星の癖、嵐の証言

全年齢

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2章 / 全10

報告を送った二時間後、トウマは観測棟の端末室で過去十年分の気象ログを引っ張り出していた。通常業務の検索権限では深い層まで届かないが、旧南区画事故の検証資料だけは研修用の名目で半端に開かれている。その隙間を縫うように年代別の粉塵流動データと設備異常記録を並べると、ばらばらだった点が、薄い糸でつながっていくのが見えた。 砂嵐の癖は今回が初めてではなかった。基地外縁でいったんほどけ、脈を打つように収束し、制御風路の応答遅れと重なる。その直後に起きていたのは、補助ポンプの停止、熱交換塔の偏荷重、圧力膜の局所膨張。いずれも報告書では単独の不具合として処理されている。だが発生の三十六時間前には、必ず同じような砂塵帯の揺らぎがある。癖というには、あまりに律儀だった。 トウマは時系列を重ね、相関係数を算出し、簡易モデルまで組んだ。結果は悪い意味で美しかった。人工気候制御システムが微細な補正を繰り返すほど、基地周辺の薄い大気と粉塵が共鳴し、外乱がまた内側の制御を乱す。見えない鏡に向かって、システム自身が少しずつ不安を増幅している。重大事故の前に現れる砂嵐の癖は、自然の気まぐれではなく、機械が自分の限界を外へ書き出した筆跡だった。 「やっぱり、出た?」 端末の脇にユナが立っていた。整備服の袖には黒い油の筋が走っている。トウマは画面を指した。 「三回じゃない。確認できただけで六回。小さいのを入れればもっとある。全部、異常の前触れだ」 ユナは口笛も吹かずに息だけを漏らした。 「それを上が素直に読むと思う?」 思わない、と答える前に、端末へ呼び出し通知が入った。運営管理室。嫌なほど早い反応だった。 会議室は居住区の中央にあるのに、妙に空気が乾いていた。壁面には地球向け広報映像が無音で流れ、緑化実験区の映像だけがやけに鮮やかだ。管理責任者の真壁は、資料を一枚だけ卓上に置いてトウマを見た。薄い笑みはあるが、目は計算機のままだった。 「相良君、興味深い指摘だ。だが現段階では仮説の域を出ない」 「仮説でも、設備異常との一致率は高いです。監視レベルを上げるべきです」 「監視は続ける。ただ、対外共有は不要だ。今は定期査察前でね。未確定情報が独り歩きすると、不要な混乱を招く」 不要。その言葉が、トウマの胸に細い棘みたいに残った。 真壁は続けた。 「君の報告は技術検討案件として預かる。表現も少し整えよう。重大設備異常の前兆、という文言は刺激が強い。傾向観測中、程度で十分だ」 十分なわけがない。トウマが開いた口を、向かいの法務担当がやわらかく塞いだ。 「現場の慎重さは評価しますよ。ただ、言葉は環境と同じで、扱いを誤ると荒れる」 会議は十五分で終わった。結論だけが最初から決まっていたような速さだった。 観測棟へ戻る通路の窓の向こうで、基地外周をなぞる砂塵帯が細く波打っていた。あの癖は前よりはっきりしている。赤い粒子の列が、巨大な心電図みたいに遠くで上下する。 ユナが自販機の横にもたれて待っていた。 「握りつぶされた顔してる」 「曖昧に保留だよ。査察が終わるまで静かにしてろって」 ユナは短く笑ったが、その笑いには温度がなかった。 「つまり、壊れるなら査察の後で壊れてほしいってことね」 トウマは返せなかった。端末に新しい観測値が届く。静電偏差、上昇。補助ポンプの調整幅、拡大。まだ警報は鳴らない。だが基地全体が、聞こえない高さの音で震え始めている気がした。 彼は椅子に座り直し、非公開処理された報告書の控えを別保存した。曖昧にされた言葉の下に、消される前の数値をひとつずつ積み直す。見ないふりを決めた上層とは別に、現場で見えているものを残すために。 スクリーンの火星は変わらず静かだった。静かすぎるものほど、壊れる前は美しい。トウマはそのことを、嫌というほど知り始めていた。

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