エラベノベル堂

火星の癖、嵐の証言

全年齢

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10章 / 全10

正式な非常事態解除が出たのは、火星の午後がゆっくり傾き始めたころだった。観測棟の赤い警報灯は消え、代わりに白い常灯が戻る。拍子抜けするほど穏やかな明るさだったが、その下にいる誰も、もう朝までと同じ顔ではなかった。 基地内ネットワークには、真壁名義の告知が続けて上がった。査察対応の凍結、運営記録の全面開示、現場代表を含む再編会議の設置。ヘリオス・フロンティアの看板がすぐに消えるわけではない。それでも、長く磨かれてきた成功の表面に、消せないひびが入ったのは確かだった。 ユナは端末を閉じ、ようやく背を伸ばした。 「終わった、でいいのかな」 「たぶん、始まったんだと思う」 トウマがそう答えると、彼女は疲れ切った顔で笑った。 「そういう台詞、少しは勝った顔して言いなさいよ」 勝った気はしなかった。失われかけたものが大きすぎる。けれど、守れた呼吸がある。その事実だけが、胸の奥で静かに熱を持っていた。 保全サーバへ最後の確認を送ろうとして、トウマは一つの通知に気づいた。送信元は地球の本社監査部ではない。火星開拓評議会、臨時執行局。基地運営の一時移管命令だった。企業の内輪の処分では済まず、火星側の自治組織が介入したのだ。予想外だったのはその続きで、臨時管理責任者の欄に相良トウマの名が入っていた。 思わず見返す。誤表示ではない。推薦者一覧には真壁、蓮見ユナ、各区画責任者の署名が並んでいた。 「冗談だろ」 声が漏れる。 ユナが画面をのぞき込み、目を丸くしたあと、吹き出した。 「すごい結末ね。告発者が、次の空の番人だ」 真壁から短い通信が入る。もう管理者の声ではなく、何かを手放した人間の声だった。 「相良。私は数字を守るつもりで、暮らしを危険にさらした。君は逆を選んだ。だから任せるべきだと判断した」 通信が切れ、観測棟に静寂が戻る。窓の外では、赤い平原の上を、ほどけた砂が低く流れていた。飾りのない空だった。少し寒く、少し不便で、けれど嘘のない空。 トウマは席を立ち、中央スクリーンの前へ歩いた。今度は誰かに隠される前の数値ではなく、これから自分が隠さずに見せ続けるべき数字が並んでいる。火星で生きる未来は、地球そっくりの楽園を演じることではない。足りなさも危うさも共有しながら、それでもここで暮らすと決めることだ。 彼は全区画向けの新しい告知画面を開いた。指先は不思議なほど落ち着いていた。 本日をもって、基地の気候運用方針を改定します。快適さの演出ではなく、実際の安全と透明性を最優先とします。 打ち終えた一文を見て、トウマは小さく息を吐く。火星の空は相変わらず人に優しくない。たぶんこれからも、何度でも牙を見せるだろう。それでももう、空に嘘を書かせはしない。 遠い地平線で、夕方の光を受けた砂が一度だけきらめいた。それは警告ではなく、まるで新しい署名のように見えた。

検閲済みプロット

火星のテラフォーミング基地で働く気象エンジニアが、人工気候システムの異常を示す“砂嵐の癖”を発見し、事故を未然に防ぐために企業の情報隠しと対決するSFサスペンス。

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