「……まだ、立ってるのか」 低い声が、古い楽屋の畳を這った。鏡台の脇に積まれた扇子や手拭いの影が、裸電球の下で妙に長い。信一は返事をしようとして、喉の奥を押し出すだけの息しか出せなかった。病み上がりの身体は動くのに、声だけがどこかへ置き忘れられたままだった。 師匠は煙草の灰を落とし、こちらを見もしない。 「高座に立てないなら、去れ」 その一言で、楽屋の空気がふっと硬くなった気がした。信一は扇子を握りしめた。使い込んだ竹の感触が、掌に痛いほど食い込む。稽古で何度も開閉を繰り返した道具なのに、今はただ自分が何者でもなくなるのを食い止める棒切れみたいだった。 「……」 言いたいことは山ほどある。無理だと分かっていても、喉を震わせれば何かが伝わるかもしれないと、みっともなく期待してしまう。だが出てくるのは、風が漏れるような空白だけだ。 師匠の机の上には、開きかけの稽古帳が置かれていた。そこに書かれた文字の一つひとつが、今は遠い。文字を覚え、間を覚え、客の息を読む。そうやって積み上げてきたはずなのに、ひとたび声を失えば、その全部が砂の城だったみたいに崩れ落ちる。 「聞こえないのか」 その言葉が、さらに深く刺さった。信一は首を振るのではなく、ただ立ち尽くした。聞こえないのではない。聞こえている。だが、応える手段がない。自分の中だけで鳴っている笑いの形も、師匠の目には届かない。 襖の向こうでは、他の弟子たちの気配がした。誰かが息を殺し、誰かがそっと視線を逸らす。その気配にすら、信一は居場所を見失う。ここは自分が学んだはずの場所で、同時にもう自分を拒んでいる場所だった。 扇子の骨が、ぎしりと鳴った。 その音だけがやけに鮮明で、信一は顔を上げた。鏡の中には、蒼白い顔で扇子を握りしめる自分が映っている。稽古着の襟は乱れ、目だけが妙に乾いていた。 「……師匠」 掠れた空気が漏れただけでも、出せたと言えるのか分からない。それでも信一は、その一音にしがみついた。だが師匠は振り返らない。沈黙だけが返ってくる。 去れ、と言われたはずなのに、足は動かなかった。今ここを出れば、本当に何も残らない気がした。扇子を握る手のひらに汗がにじみ、古い楽屋の匂いと混ざって、やけに生々しい。 信一は唇を結び、もう一度だけ扇子を見た。開けば何かを演じられる。閉じればただの道具だ。だが今の自分は、そのどちらにもなれない。 立ち尽くしたまま、彼は初めて、自分の居場所というものの輪郭が静かに崩れていくのを感じていた。
見えない声、灯る高座
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