エラベノベル堂

見えない声、灯る高座

全年齢

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2章 / 全10

翌朝の空気は、昨夜の重さをそのまま薄めたように冷たかった。信一は寄席の裏手へ回る広い通りで、立ち止まったまま人の流れを見ていた。表の賑わいが遠くで膨らんでは消える。その端で、案内札を手にした女性が、通りかかった客に丁寧に手振りを添えている。 「すみません、入口はあちらです」 声は穏やかで、指先はそれ以上に流れるようだった。迷っていた老人が彼女の示す方向を見てうなずき、少し遅れて笑う。そのやり取りに、信一は思わず目を留めた。 女性は気配に気づき、こちらへ向く。整った所作のまま、胸の前で小さく手を動かした。信一には細部までは追えない。それでも、不思議と柔らかい印象だけが残る。 「あなた、昨日の方?」 口元の形だけでもそう読めた。信一は、どう返せばいいか迷って喉元を押さえる。言葉は出ない。代わりに、浅く頭を下げた。 女性はそれを見て、少しだけ目を細めた。案内札を脇に抱え直し、今度はゆっくりと、相手に見えるように手を添えながら続ける。 「私は由美です。手話通訳をしています」 信一は、名乗り返そうとして、結局いつもの空白にぶつかった。だが由美は気にしたふうもなく、通りの向こうを一度確かめてから、静かに言った。 「前にね、手話で語る語り物を見たことがあるんです」 その言葉に、信一は顔を上げる。 「声がなくても、笑いは届くんだって、あのとき思いました」 たったそれだけなのに、胸の奥が妙にざわついた。昨夜、師匠に切り捨てられたばかりの自分には、あまりに遠い考え方だった。けれど由美の表情は、無理に慰めている感じがしない。ただ事実を置いていくみたいだった。 「……本当に?」 掠れた息が漏れる。由美はその小さな問いを逃さず、すぐに頷いた。 「本当に。大事なのは、届く形を探すことです」 そう言って、彼女は再び手を動かした。指が交差し、ひらめき、止まり、またほどける。その速さに、信一は息を忘れた。意味が分からないはずなのに、目の前で何かが確かに組み上がっていくのが見える。音ではなく、空気そのものが表情を持っているようだった。 「……そんなに、早く」 信一の呟きに、由美は少しだけ笑う。 「慣れれば見えてきますよ。あなたも、見ているでしょう」 見ている。たしかに見ていた。師匠の言葉の鋭さも、楽屋の沈黙も、扇子の乾いた重みも。ならば、目で追うことなら、まだ捨てずに済むのかもしれない。信一は由美の指先を見つめたまま、返事もできずに立ち尽くした。通りの喧噪の中で、その細い動きだけが妙に鮮明だった。

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