エラベノベル堂

見えない声、灯る高座

全年齢

小説ID: cmnenayxv004f01n39wzd2onc

10章 / 全10

大ホールの空気は、客席の奥までぎっしりと詰まっていた。幕が上がる前から、照明の熱と人いきれで胸の内側が少しだけ息苦しい。それでも信一は、袖で扇子を確かめた瞬間、妙に落ち着いた。 「大丈夫です」 由美が隣で、静かに手を動かす。先ほどまでの緊張をほどくような、短い合図だった。 「……ああ」 喉から出たのは掠れた音だけだったが、それで十分だった。 幕が開く。最初の数秒、客席はひどく静かだった。何を見せられるのか測るような、じっとした沈黙。信一はその沈黙を、怖がらなかった。むしろ拾うように、扇子をゆっくり開く。視線を客席の一番奥へ投げ、間を置き、口元だけで笑う。声が出ないことを隠すのではない。そこにある静けさそのものを、笑いの入口に変える。 扇子が一振りされるたび、人物の顔が変わった。由美の手話がその合間を繋ぎ、表情の細かな揺れまで拾い上げる。信一は身振りを大きくしすぎない。見せすぎれば客の想像が止まる。だからこそ、少しだけ残す。 「今の顔、ずるいです」 由美が袖でそう示すと、信一の口元がわずかに上がった。 「笑わせるなよ、こっちも必死なんだ」 もちろん、声にはならない。だがその無音のやり取りが、かえって舞台を軽やかにした。前列の観客が肩を揺らす。次に、少し離れた席の年配の女性が手元を押さえる。遅れて、子どものように目を丸くした若い客が吹き出した。 やがて笑いは列から列へ、波のように広がっていく。誰かが拍手をしかけて、途中で止めた。代わりに、客席のあちこちで手が上がる。由美の合図を真似るように、ひとり、またひとりと、手話で応える人が増えていった。言葉の代わりの拍手だった。音はないのに、熱は確かに伝わる。席全体が静かな波に揺れ、信一はその景色を見たまま、一席を最後まで語り切った。 最後の所作を閉じた瞬間、ホールには割れんばかりの音ではなく、息を合わせたような拍手と手話が満ちた。信一は扇子を胸に添え、深く頭を下げる。袖の向こうで、由美も同じように息を整えていた。 終演後、客席の後方に立つ師匠の姿を見つけたのは、そのときだった。厳しい顔つきのまま、だが今は何も言わない。ただ、深く頭を下げている。 信一は足を止めた。由美もまた、その背中を見つめる。 「……見てたんだな」 掠れた声が漏れる。 由美は小さくうなずいた。 「見ていました」 師匠はまだ顔を上げない。けれどその沈黙は、もう切り捨てるためのものではなかった。信一は扇子を握り直し、胸の奥に残る熱をゆっくり味わう。声を失ったことは、終わりではなかった。落語は、言葉の外へ広がった。その瞬間を、二人は客席のざわめきの残り火の中で、静かに見つめていた。

検閲済みプロット

声を失った落語家見習いが、手話通訳者と組んで『目で聴く落語』を作り上げ、伝統芸能の常識を変えていく再起ドラマ。

10章 / 全10

TOPへ