エラベノベル堂

見えない声、灯る高座

全年齢

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9章 / 全10

楽屋の空気は、幕の向こうの熱をまだ薄く引きずっていた。片付けの気配も消えかけ、鏡台の明かりだけが白く浮いている。信一は扇子を膝に置いたまま、机の上の封筒を見つめていた。先ほど届いたばかりのそれは、妙に厚みがある。由美が封の端をそっと指で押さえた。 「開けますか」 「今さら、逃げられないだろ」 そう言ってみたものの、胸の奥は落ち着かなかった。封を切ると、中からは大舞台への打診が一枚、そして別の紙がもう一枚滑り出した。そこには、遠回しな文面で、今の形式を控えるよう求める言葉が並んでいる。古い型を乱すな。余計な工夫をするな。信一は読み終えた指先を、そのまま止めた。 「やっぱり、来たか」 由美はすぐに紙面へ目を走らせ、短く息を吐いた。 「打診と圧力が、同時に来るんですね」 「同時に来るから、厄介なんだ」 信一は笑おうとして、うまくいかなかった。満席の客席の温度、境内で言い直した決意、福祉センターで見えた遅れて届く笑い。それらが胸の中で順に灯っては、紙の冷たさに押し返される。 「型を守れ、か」 扇子の骨をなぞる。声を失ってから、この道具だけはずっと自分の手元に残っていた。守るべきものだと思っていた型が、いつの間にか柵にもなっている。そのことが、ひどく悔しかった。 「信一」 由美が呼ぶ。信一が顔を上げると、彼女は封筒ではなく、まっすぐこちらを見ていた。 「失った声を、欠けたものだと思わなくていいです」 「……」 「あなたにしか開けない入口なんです」 その言葉は、慰めというより、静かな断言だった。信一は喉の奥で小さく息を鳴らした。失ったものを埋めようとしていた自分には、そんな見方はなかった。ないから駄目だと決めつけるたび、舞台の幅まで狭めていたのかもしれない。 「入口、か」 「ええ。見えていなかった人が入ってこられる入口です」 信一は、紙の束をゆっくり畳んだ。反対意見は消えない。だが、消えないまま進むしかない。舞台の上で、何を残し、何を削るか。その選び方まで含めて、自分の言葉にしていくしかない。 「俺、決めるよ」 由美の表情が、ほんのわずかに和らいだ。 「はい」 「声を失ったことを、隠さない。欠けたままじゃなくて、入口として使う。笑わせるために、見せるために」 由美はうなずき、机の端へ置かれた台本の束を引き寄せた。 「では、最後の形にしましょう」 信一は扇子を取り上げる。畳んだ骨が、掌で小さく鳴った。由美が筆記具を手に取り、紙へ視線を落とす。二人は言葉少なに、でも迷いなく、舞台用の最終稿を整え始めた。外では夜が深くなっていく。楽屋の明かりの下で、信一はもう一度だけ扇子を開き、閉じた。そこにはもう、失った声だけではなく、次へ渡すための入口が確かに宿っていた。

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