エラベノベル堂

見えない声、灯る高座

全年齢

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9章 / 全10

会場の空気は、幕が上がる前から張りつめていた。大舞台の袖には主催側の担当者、協会の役員、批判を口にしていた評論家たちが並び、私たちの演目を値踏みするように見ている。中止の判断は、まだ覆っていない。けれど師匠は何も言わず、ただ私の肩を二度叩いた。行け、という合図だった。 彼女は深く息を吸い、字幕を最小限まで削った最終版を確認すると、私の前に立った。今日の敵は批判じゃない。客席にいる一人ひとりの先入観だ。そう指先で示され、私はうなずく。扇子を握る手に、これまでで一番強い力がこもった。 一席目は静かに始まった。声がないぶん、会場のざわめきは最初こそ勝っていたが、私が間を切り、彼女が手話で流れを導くたび、客の視線はひとつずつ舞台へ集まっていく。笑わせる場面で肩を揺らす者が出ると、周囲の硬さがほどけるのが分かった。だが、問題はその先だった。 中ほどの場面で、評論家のひとりが腕を組み直した。その視線は冷たい。私はあえて噺の流れを止め、何もない空白をつくる。すると彼女は字幕を消し、手話も止め、客席をゆっくり見渡した。誰も取り残さない。その一語を、目だけで放ったのだ。 次の瞬間だった。前列の親子連れが同時に息を呑み、少し遅れて笑いが起きた。続く波は、疑っていた席にも届く。会場の温度が一気に変わった。私はその空気を逃さず、扇子で舞台を打った。乾いた音に導かれるように、客席の笑いは大きく、深くなっていく。 終演後、拍手は長く続いた。役員たちは互いの顔を見合わせ、評論家は何かを書き留めながらも、視線だけは舞台に残している。私は袖に戻り、ようやく彼女を見た。勝った、とは違う。けれど、届いた。そう伝えると、彼女は少しだけ目を細めた。 そのとき、最後列から師匠がゆっくり立ち上がった。彼は客席のまま深く頭を下げ、それから私たちに向かって手を振った。次の瞬間、会場の隅でひときわ大きな拍手が起きる。あの親子連れだった。笑顔のまま、母親が胸の前で手を合わせている。 師匠は舞台袖まで来ると、低い声で言った。これは落語だ。しかも、今の客には今までで一番わかりやすい落語だ。 私は言葉の代わりに深く頭を下げた。喉の傷はもう消えない。それでも、失ったものは終わりではなかった。彼女が並んで立ち、師匠が背を押し、観客が受け取った。そうして初めて、自分の芸は自分のものだけではなくなったのだ。 帰り支度をする私たちに、主催者が小さく告げた。次の巡業にも声をかけたい、と。予想していなかったその言葉に、彼女は目を見開き、私は思わず笑ってしまった。舞台は一度きりでは終わらない。むしろ、ここから広がるのだ。 夜風の中を並んで歩きながら、彼女が指先で問いかける。これからどうするのか。私は少し考えてから、扇子を開いた。答えはまだ形にならない。けれど、目で聴く落語はもう始まっている。声を失った落語家としてではなく、新しい高座をつくる表現者として、私は明日も舞台に立つ。

9章 / 全10

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