試演の日が近づくにつれ、稽古場の空気は張りつめていった。私は噺の流れを何度も組み直し、彼女は字幕の表示位置を指で確かめる。照明係には、笑わせる場面では少しだけ明るく、意外を生む場面では一瞬だけ影を深くしてほしいと頼んだ。声がないぶん、客の目をどこへ導くかがすべてだった。 それでも不安は消えない。正面から見れば、私はただ黙って扇子を振る男だ。客は本当に笑うのか、噺の温度を受け取ってくれるのか。稽古の合間、そう漏らすと、彼女は短く首を振った。見えているものを信じて、見えないものは客に預ければいい。自分で全部背負おうとするから、芸が硬くなるのだと。 その言葉は、胸の奥に刺さったままだった。私はずっと、失ったものの大きさばかり数えていた。だが彼女は、足りないところを埋めるのではなく、違う入口を作ればいいと言う。なるほどと思う一方で、悔しさもあった。舞台に立てない過去の自分を、まだどこかで引きずっている。そんな私に、彼女は何も言わず、扇子をそっと手渡した。 試演の前夜、稽古場に残ったのは私たち二人だけだった。静かな鏡の前で、私は最後の所作を確かめる。彼女は字幕の終わりを直しながら、ふとこちらを見た。明日、客が少なくても気にしないで。最初に届くのは、たぶん笑いじゃなく驚きだから。 私はうなずいた。すると彼女は、いつもの穏やかな顔のまま、思いがけないことをした。自分の指先で、小さく一席の始まりを告げたのだ。舞台の幕が上がる代わりに、空気がぴんと張る。次の瞬間、私はなぜか胸の奥で、はっきりと師匠の声を思い出していた。落語は、型を守るだけでは生き残れない。客の前で息を吹き返すものだ。 その夜、私たちは言葉を交わさなかった。けれど沈黙は不思議と重くなく、むしろ明日の客席へ続く長い橋のように思えた。声を失った男と、音の届かない世界を知る女が、ようやく同じ歩幅で立っている。私は扇子を握りしめ、初めて自分の芸が終わりではなく、始まりに向かっているのだと信じた。
見えない声、灯る高座
全年齢小説ID: cmnenayxv004f01n39wzd2onc
