エラベノベル堂

見えない声、灯る高座

全年齢

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3章 / 全10

午後の稽古場は、昼の熱が壁際にじわじわと残っていた。埃を含んだ光の筋のなかで、信一は扇子を開き、由美は少し離れた場所から、その動きを見ていた。 「まずは、声にしなくていいです」 由美が言うと、信一は肩をわずかに落とした。 「いいって言われると、逆に怖いな」 「怖いくらいでちょうどいいです。古典の一節を、そのまま置き換えてみましょう」 信一はうなずき、覚えたばかりの一場面を思い出す。小僧と旦那が言い合う、あの軽口のやり取りだ。だが口を使わずにやってみると、たちまち間が死んだ。扇子を差し出す指先が浮つき、目線も泳ぐ。 「今の、忙しすぎます」 由美が笑う。 「言葉が多い人ほど、手まで急ぎますね」 「うるさいのか、俺」 「少しだけ」 信一はむっとして、次の動きを試した。今度は扇子を閉じるタイミングを遅らせ、相手を見る時間を長く取る。すると、不思議なことに、ただの所作だったはずの動きに、相手を試す意地の悪さがにじんだ。 「あっ」 思わず声が漏れる。 「そこです」 由美の目が光った。 「今、見えました。言葉より先に、気持ちが来た」 信一は扇子を握り直す。しゃべらなくても、すべてが消えるわけではない。むしろ余計なものを削るほど、眉のわずかな上がり方や、視線の外し方が強く残る。由美はそのたびに、指先で修正を示した。 「ここは、もっとためて」 「この視線、客に向けて」 「今の笑いは、先に出さない。待たせます」 待たせる、という言葉が信一には妙に響いた。客を置いていくのではない。待たせることで、想像の席を作るのだ。 「言葉を減らすほど、見えるものが増える」 由美がふとそう言った。 信一は、扇子を持ったまま息を止めた。減らす、という発想は、奪うことに近いと思っていた。けれど今は違う。残された形が、かえって輪郭を濃くしていく。 「……本当に、増えるのか」 「ええ。隠れていた表情も、間も、全部です」 信一はもう一度、同じ場面をやり直した。今度は一歩引き、相手の目を確かめてから扇子を開く。由美が小さくうなずく。視線が合った瞬間、空気がぴんと張った。 「今の、少し分かる」 「少しでいいです」 由美は静かに笑った。 「少し分かる、を積み重ねましょう」 信一は扇子を閉じ、開き、また閉じた。ぎこちないはずの動きが、何度目かで少しだけ滑らかになる。まだ笑いには遠い。それでも、たしかに手応えはあった。見えていなかった道筋が、稽古場の床板の上に、細い糸みたいに一本だけ伸びた気がした。

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