大雨の音が、山をまるごと叩いていた。正面ロビーのガラス越しに見える坂道は、白い幕を垂らしたみたいに霞んでいて、来館者の姿はもうない。閉館の札を返したあとも、柚羽は鍵束を握ったまま、しばらくその場を離れられなかった。 「……本当に、今夜は一人か」 独り言に答える声はない。館長代理の慎一は、道路が崩れたと電話で告げるだけ告げて、職員用の宿直室に毛布と簡単な食料を置いていった。山の上の美術館は、雨に囲まれると別の生き物みたいに静かになる。照明の落とされた展示室の向こうから、どこかで空調の風が細く鳴った。 柚羽はロビーの案内板を見上げる。百年前の失踪画家をめぐる特別展。準備のために何度も見たポスターなのに、今夜はその題字まで妙に重たく感じられた。 「こういう初日から宿直とか、聞いてないんだけど」 返ってきたのは、時計の秒針だけだった。柚羽は苦笑して、巡回のために展示室へ続く扉へ向かう。床は乾いているのに、足元だけがやけに冷たい。さっきまで人の出入りで満ちていたはずの館内は、今では額縁の並ぶ廊下に自分の呼吸が吸い込まれていくみたいだ。 企画展示室の手前で、彼女は足を止めた。壁際に掛けられた大きな肖像画。さっきまで見覚えのある、静かな目をした人物が、ほんの一瞬だけ別の顔に見えたのだ。 「え……」 瞬きした次の瞬間には、元の顔に戻っている。気のせいだと言い聞かせようとしても、心臓だけが落ち着かない。柚羽は近づき、額縁の前で息を殺した。絵具の匂いはしない。ただ、雨に濡れた石のような冷気が、絵の表面から薄く滲んでくる気がする。 「今の、何だったの」 背後で、遠くの扉がきしんだ。柚羽は振り返る。誰もいない。けれど、展示室の奥に置く予定だった小品の台座だけが、ぽつりと空白を作っていた。 「……あれ?」 準備の記憶をたどる。確かにさっきまでそこにあったはずだ。貸出リストにも、保管予定の記録にも名前がある。展示室の中を見回しても、影になりそうな場所は少ない。なのに、何かがひとつ足りない。絵の中の人物の視線だけが、そこへ向いているように思えて、柚羽は背筋をさすった。 「まさか、盗難……?」 ありえないと否定しきれないまま、彼女はもう一度肖像画を見た。さっきの違和感は消えない。人物の顔が、見知らぬ誰かへすり替わったような、そんな錯覚が胸にこびりついている。 雨は一段と激しくなった。柚羽は空いた台座の前で立ち尽くし、閉ざされた館の中で、百年前に消えた画家の名前を初めて本当の意味で意識した。 この夜、何かが始まってしまったのだと、まだ彼女は言葉にできなかった。
雨籠りの画布、失踪は暁へ
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