柚羽は展示室の入口に立ったまま、スマホの画面を何度も弾いた。館内用の監視記録は、普段ならロビーの端末からすぐ呼び出せる。だが今は、雨で回線が重いのか、読み込みの輪がいつまでも消えない。 「お願い、ちゃんと出て……」 小さく呟いた瞬間、画面が切り替わった。暗い映像の中、企画展示室の壁際がぼんやり映る。だが、そこには人影も足音もない。柚羽は息を止め、再生位置を少し戻した。 「何も……映ってない」 台座の空白も、肖像画の前を通るはずの来館者の姿もない。閉館後の映像だから当然のはずなのに、柚羽の視線は妙な違和感に引き戻された。映像では動いていないのに、目の前の絵だけが、さっきより少しだけ表情を変えている。さっき見た人物は硬い横顔だったのに、今は視線の角度がわずかに違う。 「待って……入れ替わってる?」 絵の中の人物が、別の誰かに変わったように見える。瞬きのたびに輪郭がほどけ、また別の顔に寄っていく。柚羽はスマホを握りしめたまま、壁に貼られた来館者の動線図へ近づいた。展示順、立ち止まりやすい場所、視線が集まる角度。紙の上の線をなぞるうち、空白だった台座の位置と、絵の人物の視線が妙に噛み合うことに気づく。 「この並び……誰かを通すための道みたい」 展示構成そのものが、ひとつの流れになっている。しかもその流れは、百年前の失踪画家を扱った資料で見た配置と、不気味なほど似ていた。肖像画の位置、空いたスペース、曲がり角で視線が逸れる箇所。偶然にしては出来すぎている。 柚羽は壁の図面を指で追いながら、ぞくりとした。 「百年前も、こうやって並んでたの……?」 失踪した画家の名が、展示室の静けさの中で急に重くなる。今見えている絵の入れ替わりは、ただの気のせいじゃない。誰かが作品を動かしているのか、それとも作品のほうが勝手に位置を変えているのか。どちらにせよ、現在の展示構成と、百年前の消失は同じ線の上にある。 柚羽は動線図を見つめたまま、もう一度だけ肖像画を振り返った。絵の中の視線が、空席の台座ではなく、展示室の奥へ細く伸びている。 「……まだ、隠れてる」 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
雨籠りの画布、失踪は暁へ
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