エラベノベル堂

雨籠りの画布、失踪は暁へ

全年齢

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1章 / 全10

山間の美術館に向かう坂道は、朝から降り続く大雨で川のようになっていた。麓の橋が流され、巡回バスも止まり、予定されていた来館者は全員館内で足止めとなった。若い学芸員の蓮は、閉館後の見回りを命じられ、濡れた靴音を廊下に響かせながら展示室を回った。外の雷鳴が遠ざかるたび、壁に掛けられた絵の中の気配が、ほんの少しだけ近くなる気がした。 最初に違和感を覚えたのは、人物画の婦人だった。昨夜は窓辺に立っていたはずの視線が、今は正面の椅子にいる男へ向けられている。気のせいだと笑い飛ばそうとして、蓮は立ち止まった。次の一枚では、卓上の花瓶が右から左へ移っていた。額縁の外側は何も変わっていないのに、絵の内側だけが静かに組み替わっている。背筋に冷たいものが走った。 その夜、館内放送が保管室の異常を告げた。目玉作品として企画展の中心に据えられていた風景画が、一枚だけ消えていたのである。鍵は壊されておらず、窓も閉まったまま。館長は顔色を失い、修復担当は棚を確認し続け、滞在中の研究者たちは互いの視線を探るようになった。外へ出られない閉鎖空間に、雨音だけが重く積もっていく。 蓮は盗難の足取りを追いながら、展示室で起きた微かな変化にも気を配った。深夜になると、別の絵でも人物の位置や向きが入れ替わる。慌ただしい犯行の痕跡とは違い、それはまるで誰かが古い記録を、順にめくり直しているようだった。由来を調べるうち、百年前の創設期に美術館へ作品を遺した画家と、その傍らにいたモデルが、ある夜を境に姿を消した記録へたどり着く。 雷が山を叩くたび、蓮は絵の中に封じられた時間が少しずつずれていることを知る。盗まれた一枚には、創設者一族が隠し続けた手紙の存在が示されていた。誰かが守ろうとし、誰かが暴こうとしたもの。外へ出られない夜の中で、絵はただの飾りではなく、失われた言葉の扉のように静かに息をしていた。

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