まだ夜の冷たさが路地に残るころ、暖簾の向こうではもう蒸気が立っている。朝五時、榊屋の一日は、米を研ぐ水の音から始まった。創業百四十年。駅前の再開発からも、流行りの洋菓子店の波からも、少し身をずらすようにして生き残ってきた老舗和菓子店だ。四代目になる予定の榊悠真は、白衣の袖をまくり、練り上げた餡の固さを指先で確かめた。つや、重さ、へらに残る筋。そのどれもが、言葉より先に良し悪しを告げてくる。 店の象徴は、今も祖母の志乃だった。小柄で背筋が伸び、客の顔と好みを一度で覚える。若いころは品評会を総なめにし、季節の移ろいをひと粒の菓子に閉じ込める人だとまで言われた。春には霞、夏には夕立、秋には月、冬には薄氷。志乃が名づけた菓子は、味だけでなく景色まで連れてくると評判だった。 その祖母が、最近工房に立たなくなった。体調を崩したのだとだけ聞かされていた悠真は、忙しさに紛れて深く尋ねることを避けていた。けれど、その朝、上生菓子の木型を並べていた母の手がふいに止まり、父が火加減を見る横顔をわずかに曇らせたとき、店に満ちる沈黙の重さがいつもと違うことに気づいた。 「ばあちゃん、甘いもんがわからなくなったの」 先に口を開いたのは妹の澪だった。包装台で掛け紙を折りながら、努めて明るく言ったその声が、最後だけかすれた。 悠真は手を止めた。鍋の底で餡がふつりと鳴る。 母が静かに続けた。病気の治療の影響で、味覚がひどく鈍ってしまったこと。大好きだった練切も、羊羹も、以前のようには楽しめないこと。志乃自身がいちばんそのことを受け止めきれていないこと。 父は何も言わなかった。ただ木べらを持つ手に、少しだけ力が入っていた。祖母に菓子を習い、祖母の背中を追ってきた父にとって、それは店の灯りが半分落ちるような知らせだったに違いない。 悠真の胸に、遅れて痛みが差し込んだ。昨日見舞いに行ったとき、志乃は笑っていた。痩せた指で湯のみを包み、店の売れ行きばかりを気にしていた。その笑顔の奥にあった静けさの意味を、悠真は今になって知った。 昼の仕込みが一段落したあと、悠真は病室を訪ねた。窓辺にはまだ硬い蕾の桜が見えた。志乃は小さな箱を膝にのせていた。店で余った季節菓子だろう。けれど包みは開かれていない。 「食べないの」 尋ねると、志乃は少し困ったように笑った。 「もったいなくてね。前みたいに会えない気がして」 菓子を食べることを、そんなふうに言う人だった。味が失われるということは、ただ甘い苦いがわからなくなることではない。長い時間をかけて積み上げた季節の記憶や、手渡してきた思い出の輪郭まで、薄く遠のくことなのかもしれない。 帰り道、悠真は商店街の端で足を止めた。八百屋の店先に菜の花が束ねられ、風が通るたびにかすかな青さをこぼしている。和菓子は味だと、ずっと思ってきた。甘さの調子、餡の炊き具合、求肥の伸び。だが、春を春だと知らせるのは、舌だけだっただろうか。 店に戻ると、夕方の光が硝子ケースを斜めに照らしていた。父が帳場で売上をまとめ、母が明日の豆を選り分け、澪が包材を片づけている。皆それぞれの手を動かしながら、同じところで立ち止まっているように見えた。 悠真は白い作業台の前に立ち、掌をきゅっと握った。祖母が味わえないのなら、別の道で季節を届ければいい。香りでも、口あたりでも、見た目でも、手に取った瞬間の気配でもいい。菓子は舌の上だけにあるものじゃない。 その夜、閉店後の工房にひとり残り、悠真は新しいノートを開いた。最初の頁に、墨のように濃い字で書く。 味に頼らず、季節を届ける菓子。 古い時計が、静かに一つ時を打った。榊屋の長い歴史のなかで、たぶんまだ誰も踏み入れたことのない一歩が、そこでようやく始まった。
香の包み、季はひらく
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