和真は座敷の障子を少しだけ開け、外の冷えた空気をそっと入れた。年の瀬の夜は深く、松風堂の灯りだけが畳に淡い輪を落としている。卓の上には、包み直されたひと箱。名前はもう決まっていた。 「京子さん」 「ええ、待ってたわ」 祖母はいつもの穏やかな声で答えたが、その指先だけが少しだけ落ち着かない。和真は箱を両手で差し出した。 「新作、できた。四季香っていう」 「四季香」 京子はその響きを何度か口の中で転がし、ふっと笑った。 「いい名前ね。香りが先に来る菓子らしいわ」 「開けてみて」 紙をほどく音は、妙に静かだった。京子が包みを開いた瞬間、春のやわらかな気配がまず立ちのぼる。桜葉の淡い塩気が、雪解け前の空みたいに軽く鼻先をくすぐった。 「……春だわ」 京子は目を閉じる。 「庭の梅じゃない、もっと前の、まだ寒さが残る朝。お弁当を持って、みんなで歩いたわね」 和真は息を呑んだ。続けて、歯ざわりの奥から青柚の涼しさが立つ。 「次は夏」 「ええ。子どものころの川風みたい」 京子の唇がゆるむ。噛み進めるたび、栗のほろりとした甘みが、秋の夕暮れのように静かに広がった。 「秋は、栗ご飯の匂いじゃないのね」 「菓子だから、少しだけやさしくした」 「十分よ。むしろ、思い出はこのくらいがちょうどいい」 最後に黒糖の深い余韻が舌の奥へ落ちると、京子は小さく息をついた。 「冬は……火鉢のそばね」 その声が少し震えた気がして、和真は胸の奥を押された。祖母の顔に、味ではなく景色が次々と戻っている。春夏秋冬が、一口の中で順に灯っていく。 「和真」 「うん」 京子は、箱の脇に置かれた古い献立帳の断片へ視線を向けた。 「この名前ね、昔の私が書いておいたものなの」 和真が顔を上げる。家族の誰も知らなかったはずの、四季香。宏も、凛々も、ただ驚いた顔のまま言葉を失っている。 「若いころ、いつか作れたらと思ってね。けれど、誰にも見せないまましまってしまったの」 「じゃあ、最初から……」 和真の声がかすれた。 京子はやさしくうなずく。 「ええ。あなたが見つけたんじゃないわ。私が、たどり着いてほしかったの」 それを聞いた瞬間、和真はすべてを理解した。献立帳の断片も、季節を手で感じる発想も、家族で分け合う形も、最初からこの菓子へ向かっていたのだと。 「祖母ちゃん……」 驚きのあとに、宏が低く笑った。 「随分と遠回りさせたな」 「いいえ」 京子は首を振る。 「ちゃんと来てくれたわ」 座敷に、静かな笑いが広がった。和真は四季香の箱を見下ろし、そこに積もった年月の温度を感じる。作ったのは自分でも、導いたのは祖母だった。 窓の外では、年の終わりの風がそっと鳴っていた。
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老舗和菓子店の跡取りが、味覚を失った祖母のために匂いと食感だけで季節を伝える菓子を開発する家族ヒューマンドラマ。
