エラベノベル堂

香の包み、季はひらく

全年齢

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9章 / 全10

その夜、閉店後の工房に残ったのは、豆を炊いた甘い匂いよりも、木箱の乾いた香りだった。悠真は作業台に春の箱を並べ、ひとつずつ蓋の開き方を確かめていた。ほんのわずかな角度の違いで、最初に触れる空気の流れが変わる。香りは強ければ届くものではない。開けた瞬間、こちらから押しつけず、向こうの記憶が自然に目を覚ますくらいでなければならないのだと、ようやくわかってきた。 父は向かいで古い木箱の紐を切りそろえていた。母は和紙を重ねる順を確かめ、澪は結び目の大きさを揃えていく。誰も大きなことは言わない。ただ、それぞれの手が同じひと箱へ向かっていた。祖母のために始まった工夫が、店のいつもの景色の中へ少しずつ馴染んでいく。その静けさが、悠真には不思議と頼もしかった。 「箱を開ける前の音もあるわね」 母がそう言って、薄紙を一枚めくった。さらりという小さな音が、工房の静まり返った空気に溶ける。澪が顔を上げる。 「冬はそれ、すごく大事かも。雪の日って、音が遠くなる感じするし」 父は手を止めずに言った。 「春は逆に、閉じすぎるな。外の気配が少し入りこんで完成する」 悠真はうなずいた。菓子だけでも、包みだけでも足りない。店の木の匂い、紙の擦れる音、紐をほどく指先のためらい、蓋を持ち上げる呼吸。そうしたものが一つながりになったとき、ようやく季節になる。祖母が言っていた意味は、技法ではなく、受け取る人の中に景色を立ち上げることだったのだ。 試しに春の箱を自分で開けてみる。指に和紙の繊維が触れ、紐がやさしくほどけ、蓋の下からごく短く香りがこぼれる。口へ運ぶ前に、朝の庭先の湿った土と、まだ風に負けそうな花の気配が胸に広がった。味を確かめる前に、もう春は来ている。悠真は菓子を見つめたまま、ふと笑った。 「やっと、ばあちゃんの言葉の後ろまで見えた気がする」 父が珍しく、すぐに返した。 「遅いくらいだ」 ぶっきらぼうなのに、声は少しやわらかかった。 翌朝、店先に並べた季の便りは、前の日までとは違って見えた。新しい商品というより、榊屋が昔から持っていたものを、ようやく別の形で言い表せたような落ち着きがあった。常連客が箱を手に取り、和紙を指で撫でる。その仕草を見るだけで、悠真の胸は静かに満ちた。 もう迷いはなかった。祖母に届ける菓子は、ひと口の甘さの中だけにあるのではない。手渡される時間ごと、季節を包みこめばいい。そう思えたとき、榊屋の伝統と自分の工夫は、ようやく別々の道ではなくなった。 夕方に祖母のもとへ持っていく箱を前に、悠真は最後の紐を結ぶ。固すぎず、軽すぎず、ほどくときに小さな期待が指先へ残る結び目。工房の灯りの下で、その箱はひどく静かだった。けれどその静けさの中には、春の空気も、夏の水音も、秋の乾いた葉も、冬の白い息も、たしかに潜んでいる気がした。榊屋の新しい一歩は、派手な音を立てずに、もう踏み出されていた。

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