エラベノベル堂

深き回線、潮の黙示

全年齢

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1章 / 全10

定期点検の朝、船はまだ薄い霧のなかにいた。甲板に立つと、海は静かすぎるほど静かで、空と水面の境目が曖昧に溶けている。真琴は手すりに触れた指先の冷たさで、ようやく寝不足の頭を現実へ引き戻した。 海底通信ケーブル保守船みらい二号の仕事は、派手さとは無縁だ。決められた航路をなぞり、沈黙しているはずの深海の線路に異常がないか確かめる。世界をつなぐ情報の大動脈は、陸の上では見えない場所で息をしている。その鼓動を聞き取るのが、真琴たちの役目だった。 制御室では、夜勤明けの相良が紙コップのコーヒーを片手に画面をにらんでいた。隣では解析担当の由良が、観測ログを高速で流し見している。若手の梶が遠隔無人探査機の姿勢制御を確認しながら、いつものように軽口を飛ばした。 今日も海の機嫌は良さそうですね、主任。 良い日に限って面倒が起きるのよ、と真琴は答えた。半分冗談のつもりだったが、数分後、その言葉は妙に現実味を帯びることになる。 深度五千七百メートル付近、定期監視の帯域チェックに、規則的な乱れが混じった。最初に気づいたのは由良だった。自然ノイズにしては並びが整いすぎている。相良が別系統の記録を重ね、梶が探査機の受信機感度を調整する。画面の上に浮かぶ波形は、海流でも地殻ノイズでもない、誰かが意図して置いた足跡のように見えた。 真琴は椅子を引き寄せ、無言でログを拡大した。短い信号群が一定間隔で現れ、そのあいだに文字列が挟まっている。文字コードは一種類ではない。英字の断片に、東欧系の表記らしき並び、漢字圏の記号、さらに機械生成の暗号文に近い列まで混在していた。普通なら、観測機器の誤判定か、遠方から紛れ込んだ不要信号として処理する。だがこれは違う、と真琴は直感した。 雑音にしては行儀が良すぎる。 そのつぶやきに、相良が肩をすくめる。海の底にも几帳面な幽霊がいるのかもしれませんね。 笑う者はいなかった。由良が新しい窓を開き、過去一年分の監視記録と照合をかける。結果は空振りだった。同一パターンは存在しない。にもかかわらず、信号には妙な完成度がある。長さ、間隔、切れ目、どれも偶然にしては整いすぎていた。 発信元の推定は、と真琴が問う。 固定できません、と梶が言った。ケーブル沿いでもないし、真上でもない。反射みたいに見えるのに、反射にしては減衰が変です。 まるで、位置そのものをぼかしているみたいだった。真琴は背筋に細い冷気が走るのを感じた。海底ケーブルの周辺では、まれに説明のつかない記録が拾われることがある。だが多くは調べるほど平凡な原因に落ち着く。今回もそうであればいい。そう思いながら、彼女はすでにそうではない予感を抱いていた。 ログの一部を抽出して再生すると、信号は無音のはずなのに、部屋の空気がわずかに張りつめた。誰かが扉の向こうで息を潜めているような、不快ではないが落ち着かない気配。世界中のやり取りが行き交う海の底で、名簿にもない誰かがひっそり発言している。 回線管理局への定型報告はまだ上げないで、と真琴は言った。まず船内で切り分ける。機器異常の可能性を全部潰してから。 了解、と由良は答えたが、その声には抑えきれない高揚が混じっていた。相良はコーヒーを置き、珍しく真顔で画面に向き直る。梶は探査機を目標深度へさらに降ろしながら、小さく息をのんだ。 船は予定どおりの速度で進んでいた。海面は穏やかで、空も崩れる気配を見せない。けれど制御室のなかだけ、見えない潮目が静かに変わっていく。世界をつないでいるはずの線の底で、どこの誰でもない何かが、確かにこちらを待っていた。

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