工具箱より先に端末を開く新人は、たぶんこの場では俺だけだった。整備ピットの朝は油と金属の匂いが濃くて、誰もがまず手を動かす。けれど高瀬直樹は、指先で画面をなぞりながら選手ごとの走行記録を黙々と並べ替えていた。 「おい、直樹。先に車体見ろよ」 声をかけた先輩整備士に、直樹は顔を上げずに返す。 「見てます。ただ、見る順番を変えてるだけです」 無愛想に聞こえるのに、妙に筋が通っている。そのせいで、誰も強くは突っ込めない。 彼の視線が止まったのは、黒田正彦の欄だった。勝ち星は少ない。着順も安定しない。なのに、周回ごとの加速地点だけが妙にぶれない。まるで同じ場所で足が自然に踏み込むみたいに、毎回きれいな波形を描いている。 直樹は眉を寄せた。 「変だな」 「何がだ」 「成績は悪いのに、加速の癖だけは崩れてないです。脚が落ちてるんじゃない。たぶん、別のところで損してる」 整備主任が書類から目を上げる。 「別のところ?」 「はい。脚そのものじゃなくて、走りの癖です。黒田選手は、力を出せる場面で少しだけ無駄を作ってる」 主任は一瞬だけ黙り、やがて鼻で笑った。 「新人が何を言うかと思えば。データは便利だが、勝負はそんなに単純じゃない」 その言葉に直樹は反論しなかった。ただ、端末の画面をもう一度だけ見つめる。数字は嘘をつかない。けれど、黙っているだけで真実を隠すこともある。 ピットの奥では、黒田正彦が黙々と自転車を受け取っていた。年季の入った背中は大きいのに、どこか少しだけ疲れて見える。直樹はその背中を見ながら、胸の内で小さく確信した。 この人は、脚で負けているんじゃない。癖で、勝ち切れずにいる。 そう口にしたところで、まだ誰も本気にはしないだろう。それでも直樹は端末を閉じなかった。次に必要なのは、工具より先にこの違和感を形にすることだと、もう分かっていた。
踏み出す輪郭、風は遅れない
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