エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

小説ID: cmnenc1l9000001mn45lafs0i

2章 / 全10

遼は記録を重ねるほど、三崎の走りに同じ影が差す瞬間を見つけていった。打鐘の前後、隊列が伸びて勝負の形が決まりかける場面で、三崎は一度だけ踏み込みを弱める。脚が足りないわけではない。その一拍のためらいで前との間合いがわずかに狂い、仕掛けの道が細くなるのだ。映像を巻き戻し、周回ごとの速度を照らし合わせるたび、遼はその癖が偶然ではないと確信した。 ただ、数字だけでは理由までは掴めない。遼が行き詰まっていたある夕方、古い整備台の前で先輩整備士がぽつりと漏らした。昔の三崎は、あんな待つ走りじゃなかった。遼が顔を上げると、先輩は工具を拭きながら続けた。数年前、大事な開催で無理に内へ入って接触寸前になったことがある。転倒は免れたが、自分も相手も勝負を失った。それ以来だ、決めに行くところで半歩引くようになったのは。責める口調ではなく、長く見てきた者の諦めに近い響きだった。 翌日、遼は整備後の三崎に資料を差し出した。折れ線と数字ばかりの紙を見た三崎は、露骨に眉をひそめた。走りまで帳面で裁くのか。声は低く、乾いていた。遼は紙を引っ込めずに答えた。裁きたいんじゃありません。迷う場所が同じなら、安心して踏める形を一緒に探せると思って。三崎はしばらく無言のまま紙を見つめ、やがて鼻で息を吐いた。安心、ね。そんなもので前に出られるなら苦労しない。 それでも遼は食い下がらなかった。サドルを数ミリ前に出し、ハンドルの角度をわずかに開けば、掛かり始めの感触が変わるかもしれません。踏み出しの初速で不安が減れば、判断も遅れにくくなる。部品の交換も、大きな改造ではなく、握りの感触を揃える程度でいい。三崎は呆れたように笑いかけたが、その笑みは完全な拒絶ではなかった。 試したのはその日の練習からだった。相馬が先導役を買って出て、七海は取材の名目で周回を見守った。先輩整備士も結局は黙って工具を渡した。整備場の誰もが表立って期待を口にしないまま、少しずつ同じ方向を向いていくのが遼にはわかった。三崎は新しいポジションに最初こそ違和感を示したが、二本目の流しでは踏み出しの癖が目に見えて滑らかになった。大きな変化ではない。けれど、勝負の入口で呼吸が途切れなくなった。 その夜、遼は再びデータを整理しながら、数字の並びに初めて温度のようなものを感じた。三崎のラップは相変わらず派手ではない。だが、ためらいの前にあった小さな揺れが、今日は薄い。翌朝、三崎は整備場に来るなり自転車を軽く揺すり、短く言った。悪くない。たったそれだけだったが、遼の胸には十分だった。 相馬はまるで自分のことのように喜び、七海は記事にならない変化ほど大事かもしれませんねと笑った。先輩整備士も、帳面磨きもたまには役に立つなとぼやいた。冗談めいた言葉の裏に、もう半信半疑は残っていなかった。数字に反発していた三崎も、練習後には自分から映像を見返すようになった。どこで迷ったかではなく、どこなら迷わず行けるかを皆で探す時間が増えていく。春の冷えた風はまだバンクを撫でていたが、整備場の空気だけは少しずつ熱を帯び、ばらばらだった視線が一つの走りへ静かに集まり始めていた。

2章 / 全10

TOPへ