エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

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10章 / 全10

号砲が鳴ると、観客席のざわめきはすぐに一本の張った糸のような緊張へ変わった。開設記念の決勝。地元の期待も、外から集まった実力者たちの圧も、全部が同じバンクの上に乗っている。遼は柵越しに三崎の背を見つめた。もう勝てないベテランと呼ぶ者はいない。けれど、だからこそ今日の一走には、以前より重い意味があった。 周回は静かに進んだ。三崎は中団で構え、必要以上に動かない。遼にはわかった。待っているのではない。見えているものを見えたまま流し、最初の決断の形を壊さないようにしているのだ。打鐘前、前の隊列がわずかに浮く。これまでなら、いや少し前の三崎なら、ここで最善を測り、もう半拍だけ様子を見ていたはずだった。 だが三崎は出た。誰かより速くではなく、自分の迷いより速く。外へ持ち出した車輪がきれいに伸び、場内の空気が一気に膨らむ。相馬が柵を叩き、七海は息を呑んだまま目を離せない。最終バックで三崎は先頭に並びかけ、そのままわずかに出る。勝てる。遼の胸に、その予感が確かな重さを持って落ちた。 四コーナー。後続が迫る。三崎は踏む。踏み切る。その背中には、もうためらいの影がない。直線、歓声が弾ける。だがその瞬間、内から伸びたのは別の選手ではなかった。最後の最後に、三崎自身の車体がふっと力を抜いたように見えた。ほんのわずか、競るための踏み合いを外したのだ。先頭を譲るように、一車だけ前へ出させる。ゴール。結果は二着。場内はどよめき、次いで困惑混じりの拍手に包まれた。 遼は息を止めたまま動けなかった。勝てたはずだった。そう思ったのは自分だけではない。戻ってきた三崎は荒い息を整え、車体を降りると、騒然とした周囲をよそに静かに笑った。 勝たなかったんですか、と遼は思わず聞いた。 三崎は汗を拭いながら、少しだけ空を見た。 勝てたかもしれん。でも今日、前を取ったあいつはデビューしたばかりのころの俺にそっくりだった。無茶をしてでも行くしかない顔をしてた。昔の俺には、ああいう先輩がいなかった。 遼は言葉を失った。三崎は続ける。 負け癖を消したかったのは本当だ。でも塗り替えたかったのは着順だけじゃない。勝つために人を削る走りしか残らんのなら、俺は昔の失敗から何も変わってない。 相馬も七海も、先輩整備士さえも黙ってその言葉を聞いていた。二着なのに、三崎の顔には敗北の色がなかった。むしろ初めて、自分で選んだ終わり方を手にした人間の静かな明るさがあった。 その夜、七海の記事の見出しは優勝者ではなく三崎の名前で最も読まれた。勝てないベテランは、ついに勝たなかったことで別の何かになったのだ。遼は整備記録の最後の頁に、着順ではなく短く書いた。判断、遅れなし。 数字だけでは届かないものがある。だが数字があったから、ここまで来られた。遼が顔を上げると、春の終わりの風がバンクを渡っていく。三崎はヘルメットを小脇に抱え、次の開催の話をしていた。競輪場に残った熱は、勝敗よりも長く消えそうになかった。

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地方競輪場を舞台に、データ分析に熱中する新人整備士が、結果を出せずに伸び悩むベテラン選手の走りの癖を統計で可視化し、仲間たちと協力しながら最終レースで逆転を目指すスポーツ群像劇。

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