観客席のざわめきが、熱を帯びた風に乗って背中へ貼りつく。正彦は前へ出ているのに、まだ本気の加速ではない。直樹は柵越しにその背中を見ながら、端末の画面と現実の差を確かめていた。 「……仮説どおりじゃない」 思わず漏れた声に、自分でも驚く。だが、外れたのではない。外れたはずの流れが、別の形で噛み合いはじめている。 正彦は一周を残した位置で、ほんの一瞬だけ肩を落とした。誰もが息をのむ。次の瞬間、迷いなく踏み込む音が響いた。 「来た」 直樹の声は、歓声に埋もれない程度の低さだった。整備で詰めた姿勢、分析で拾った癖、深夜に何度も書き直した展開図。その全部が、今の一歩に集まっている。さらに、背後から追う選手たちの視線、仲間たちの静かな圧、そして正彦自身が積み重ねてきた敗北の記憶まで、目に見えない糸みたいに一つへ結ばれていく。 正彦は、誰もが待つはずのタイミングを一拍だけずらした。包囲が締まる前に、最も狭い隙間へ身体を滑り込ませる。 「そんなとこ、通るのかよ……!」 観客の誰かが叫ぶ。だが正彦はもう振り向かない。迷いを捨てた走りは、驚くほどまっすぐだった。 ゴール前直線。風が頬を切り、世界が細くなる。直樹には、数字より先に分かった。正彦は、初めて自分で自分の走りを選んでいる。 その瞬間、先頭に立った。 誰も予想しなかったタイミングで、黒田正彦は一気に抜ける。 直樹は端末を握ったまま、結果表示より早く、その背中を見送った。やがてゴールを示す音が響く。けれど彼の目が追ったのは、数値ではなかった。 振り返った正彦が、初めて迷わず笑っていた。 その笑いは、勝ったからではなく、ようやく自分の足でここまで来たからこそ浮かぶ顔だった。 直樹は息を吐き、画面の明滅を見つめる。 「……数字は、あとでいいか」 小さく呟くと、正彦はゴール先でまだ笑ったまま、短く拳を握った。直樹はその表情を見て、答えはもう十分だと思った。
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地方競輪場を舞台に、データ分析が得意な新人整備士が、勝ち切れないベテラン選手の癖を統計で見える化し、最終レースで奇跡を狙うスポーツ群像劇。
