エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

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9章 / 全10

開設記念の前日、地元競輪場に戻ってきた三崎を見たとき、遼は奇妙なずれを覚えた。景色は見慣れているのに、そこへ立つ三崎だけが少し遠くから来た人のように見えたのだ。遠征での二着は確かな手応えだった。だが同時に、地元で迎えられる視線の重さも増していた。勝てないベテランではない。なら次は勝つのか。期待は、励ましに見えて足首へ絡むことがある。遼はそのことを、これまでの分析の線の隙間から学んでいた。 前検日の試走は悪くなかった。踏み出しも軽い。だが周回を終えた三崎は、戻るなりヘルメットを外して黙り込んだ。遼が声をかけると、三崎は苦く笑う。 前より見えすぎる。 意味を測りかねる遼に、三崎はバンクへ視線を向けたまま続けた。 前なら迷って遅れてた。今は周りの動きも、自分の行ける隙も、前より見える。見えるぶん、選べる。選べると、逆に厄介だな。 その言葉で、遼は胸の奥に残っていた違和感の正体を掴んだ。三崎を縛っていたのは恐れだけではない。変わった今は、可能性の多さそのものが迷いになる。遅れの原因は失敗の記憶から、正解を探しすぎる目へ移りつつあったのだ。 夜、整備場の隅で遼は過去の記録と遠征の映像を並べた。相馬も仕事終わりに顔を出し、七海は取材ノートを抱えて座り込む。先輩整備士は呆れた顔で缶コーヒーを置きながらも、結局その輪から離れなかった。映像を見返すうち、相馬がぽつりと言った。 三崎さん、前より賢く走ってるんです。でも、賢いってたまに遅いっすよね。 遼ははっとした。これまで消そうとしてきた半拍は、臆病さだけの産物ではなかった。最善を選ぼうとする誠実さもまた、勝負では刃の曇りになる。必要なのは迷わないことではない。迷っても、最初の決断だけは鈍らせないことだ。 翌朝、遼は整備の方針をほとんど変えなかった。変えないことを選んだのだ。触るのは握りの角度だけ、ごくわずか。確認事項も減らし、三崎に伝える言葉も一つに絞った。 正解を探さないでください。最初に決めた形を、最後まで育ててください。 三崎はしばらく黙り、やがて小さく笑った。 難しい注文だな。 でも、今の三崎さんならできます。 そう言い切った瞬間、遼は自分でも驚くほど迷いがなかった。数字だけでは救えないものがある。それでも、数字でしか支えられない覚悟もある。線を重ねてきた日々は、この一言を言うためにあったのかもしれない。 発走を待つ間、七海は珍しく取材メモを閉じたまま立っていた。相馬は柵の向こうで拳を握り、先輩整備士は目を細める。三崎はサドルにまたがる前、遼に向かって短く言った。 勝ち方は知らん。だが、選びすぎない走りならできる。 その背中がバンクへ向かっていく。春の光は以前と同じように古びたコンクリートを照らしていたのに、遼にはまるで別の場所へ送り出しているように見えた。ここが勝負の真ん中だと、ようやく誰もが理解していた。

9章 / 全10

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