エラベノベル堂

踏み出す輪郭、風は遅れない

全年齢

小説ID: cmnenc1l9000001mn45lafs0i

9章 / 全10

観客席の前を回り込む風は、午後の熱をまだ少しだけ抱えていた。黒田正彦は序盤から、わざと一拍遅れたような位置取りを見せる。外から見れば不自然で、追う側からすれば取り囲みたくなる絶妙な間合いだった。 「来たな」 直樹は柵越しに端末を見つめたまま、小さく呟く。正彦の動きは囮だ。分析を読んだ相手なら、ここで包囲を作る。だが、その包囲こそが狙いだと、直樹は一枚上で理解していた。 「右、詰める気だ」 隣の観客が息を呑む。正彦はそれに気づいているのかいないのか、あえて視線を誘うように、ほんの少し外へ膨らむ。 「わざとだろ、あれ」 誰かの声が背後から飛ぶ。 「いや、あそこまで不安定なら……」 直樹は首を振った。 「不安定に見せてるだけです」 正彦は勝負どころの癖を、隠さなかった。むしろ観客の予想が固まった、その一瞬を待っていたように、踏み込みの角度を変える。警戒が外側に寄った瞬間、内側の空白が生まれた。 「今だ」 直樹の声が低く落ちる。 正彦は一気に前へ出た。いつもなら逃げたくなるはずの迷いを、今日は隠すどころか晒したまま、逆に加速へ変える。包囲しようとしていた選手たちの呼吸が、遅れて乱れるのが見えた。 「うそだろ……!」 「黒田が、あの位置から?」 直樹は画面の波形より先に、正彦の背中を見ていた。あの背中は、怖さに押されて縮むのではなく、怖さごと踏み台にしている。 だが、まだ終わらない。直樹はすぐに次の変化を拾った。相手の一人が慌てて進路を修正し、別の一人が外へ逃げる。その連鎖は、正彦の囮が想定以上に効いている証拠だった。 「さらに前、行けます」 直樹は叫ぶでもなく、息を送るように言う。 正彦の肩がわずかに動き、返事の代わりに踏み込みが強まった。弱点を隠さない走りは、もう弱点ではない。観客席のざわめきが一斉に膨らみ、ざわりと空気を揺らす。 「見えたぞ、今のは」 「直線に入る前に、もう一回ある」 誰かがそう言ったが、その言葉の意味を理解する前に、正彦はさらに前へ出た。包囲の輪は、もはや輪ではない。直樹の分析を逆手に取ったはずの囮が、相手の判断そのものを追い越していく。 直樹は唇を引き結び、端末を握り直した。 まだ、先はある。 正彦が本当に前へ出るのは、今ではない。

9章 / 全10

TOPへ