潮の匂いが、窓の隙間から鉄の冷たさと一緒に入り込んでいた。白く塗られた教室の机は妙に新しく、そこに座る受刑者たちの沈黙だけが、ここが普通の学校ではないと告げている。 「本日から、共同執筆プログラムを開始します」 教官は黒い資料を抱えたまま、淡々と告げた。年齢も経歴もばらばらな受刑者たちが、顔を上げる。誰かが鼻で笑い、誰かが腕を組む。俺もその一人だった。小説を書け、と言われて素直に従うほど、ここにいる連中は従順じゃない。 教官は机の上に冊子を並べた。 「一冊の作品を、全員で完成させてもらいます。分担はしますが、最終的にはひとつの物語です。更生とは、自分の言葉を他人と擦り合わせる訓練でもある」 「冗談だろ」 誰かが吐き捨てるように言った。 「冗談ではありません。あなたたちの文章は記録され、比較され、必要なら修正されます」 教官の声は波に削られた石みたいに平たい。それなのに、妙に耳に残った。 冊子を開く音が、ぱらぱらと揃う。表紙には、題名もなく、ただ題材だけが印刷されていた。刑務島で起きた未解決事件をもとにした共同小説。ざわめきが一段、低くなる。 「事件って、あの件かよ」 「聞いたことある奴もいるのか」 「知らない方が幸せだったな」 教室の空気が少しだけ重くなる。俺は配られた資料をめくり、途中で指先を止めた。ページの片隅に、見覚えのない事件名が刷られている。そんな名称を自分は一度も聞いた覚えがない。けれど、妙に胸の奥がざらついた。 その字面は、古い記憶の扉に爪を立てるみたいだった。知っているはずがない。なのに、知らないとも言い切れない。 「どうかしましたか」 真正面から教官に問われ、俺は反射的に冊子を閉じた。 「いや、別に」 「なら結構です」 教官は教卓に手を置き、全員を見渡した。 「今日の目的は、正解を探すことではありません。互いの語りを持ち寄り、ひとつの物語に仕立てることです。矛盾が出ても構いません。むしろ、そこに価値があります」 価値、という言葉がやけに冷たかった。 窓の外で、波が防波堤を叩く音がした。ここでは海さえ逃げ場にならない。俺は再び資料に目を落とし、見覚えのない事件名を指でなぞった。すると、隣の席の受刑者も同じ箇所で手を止めていた。さっきまで強気に笑っていたくせに、その顔色はひどく悪い。 「おい」 小さな声が漏れる。 「これ、何だ?」 「何が」 「この事件名……俺、知らねえ」 言い切った瞬間、そいつの喉がごくりと鳴った。俺は答えられなかった。知らないはずの文字列が、なぜかただの印刷以上の重みを持っている。その理由を、今はまだ誰も言葉にできない。 教官は気づいているのかいないのか、静かに名簿へ目を落とした。 「では、初回説明を続けます。ここから先は、あなたたち自身の手で書いてもらいます」 その一言で、教室の誰もが自分の息の音を意識した。
孤島綴り、沈黙の継ぎ目
全年齢小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk
