翌朝の創作会議で、真緒は昨夜の違和感を胸の底に沈めたまま席についた。長机の中央には新しく印刷された原稿が置かれ、折口がいつもと変わらぬ穏やかさで、続きは自由に、と告げる。だが紙をめくった瞬間、真緒の指先は止まった。新しい章には、海辺の町のはずれにある古い温室が出てきた。割れたガラス、湿った土、入口に吊された鈴。主人公はそこを避けるように歩くのに、文章だけは何度も温室へ引き返す。まるでそこに物語の芯が埋まっているみたいに。さらに次の頁では、誰かの口癖が繰り返されていた。大丈夫、もう済んだことだ。慰めのようでいて、言われるたびに責任の輪郭だけが濃くなる言葉だった。真緒はその言い回しに覚えがあった。食堂で皿を下げる職員が、面談室の前で待たされる参加者に、何気なくかける言葉と同じだった。昼休み、真緒はさりげなく寮内を歩いた。廊下の掲示板には古い行事写真が何枚も貼られている。数年前の園芸活動の写真に、小さく温室が写っていた。今は立入禁止の札が掛けられ、森側の通路からも見えない場所だ。隣にいた年長の女性が、写真に向けた真緒の視線に気づくと、貼り紙を直すふりをしてその一枚だけを少しずらした。あそこはもう使ってないの、と彼女は言った。声は軽いのに、語尾だけが硬かった。午後の会議は前より静かだった。姿勢のいい中年の男は原稿の整合性に執着し、持ち物は鍵で統一したほうがいいと主張する。よく笑う男は、いや時計のほうが過去を匂わせる、とわざと茶化す。爪を短く切りそろえた女性は、どちらでもいいですと答えながら、机の木目ばかり見ていた。無口な青年だけは、一度も原稿に手を伸ばさなかった。真緒は気づいた。皆が争っているのは設定ではない。どの印を残し、どの印を消すかだ。温室、鈴、鍵、時計、大丈夫という口癖。それらが小説の内部で反復されるたび、誰かの表情がわずかに曇る。まるで見えない糸が、それぞれ別の場所から同じ一点へ引かれていくようだった。会議の終盤、折口が、細部のぶれは物語に奥行きを与えます、とまとめようとしたとき、真緒は初めて口を開いた。だったら、ぶれているのに毎回戻ってくるものは何ですか。部屋の空気が薄くなった気がした。折口はすぐには答えず、原稿の端を指でそろえた。創作には、無意識が出ます。そう言って微笑んだが、その笑みは少しだけ遅れて顔に置かれたものだった。夜、自室に戻った真緒は、これまでの章を床に並べた。舞台は変わる。人物像も揺れる。けれど消えないものがある。海の見える高台。立入禁止の場所。手から手へ渡る何か。済んだことにしたがる声。単なる技巧なら、こんなふうに執拗ではいられない。誰かが忘れたい順番で書き、誰かが忘れられない順番で書き直している。そう思った瞬間、この共同創作は一冊の小説ではなく、互いの沈黙を試し合う場なのだと真緒は悟った。窓の外では、夜の森の向こうに見えないはずの温室がある気がして、眠りにつくまで、かすかな鈴の音だけが耳の奥に残り続けた。
孤島綴り、沈黙の継ぎ目
全年齢小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk
