島が見えたとき、蓮見真緒は船の手すりを握る指先に、思ったよりも強い力が入っていることに気づいた。灰色の海のまんなかに、切り立った岩場と低い森をのせた小さな陸地が浮かんでいる。その奥に、古い寄宿舎を改装したらしい白い建物が見えた。更生施設、青玻寮。社会復帰支援のための滞在型プログラム。その説明文を何度も読んできたはずなのに、実物は紙の上よりずっと閉じた場所に思えた。 出迎えに現れた職員は柔らかな声で手続きを進めたが、門をくぐると空気まで規則で区切られているようだった。起床、作業、面談、食事、消灯。その中に、真緒が意外に思った項目が一つあった。共同創作プログラム。参加者全員で一冊の小説を書き上げる。それがこの施設の目玉らしかった。 初回の会議室には、真緒を含めて六人が集められた。二十歳そこそこの無口な青年、妙に姿勢のいい中年の男、爪を短く切りそろえた女性、よく笑うが目だけ笑わない男、そして白髪の混じる年長の女性。年齢も雰囲気もばらばらで、同じ場所にいる理由だけがうっすら共通しているように見えた。 指導役の講師、折口は黒板の前で両手を組み、朗らかに告げた。 ここでは正解を書く必要はありません。大事なのは、他人の文章を受け取り、先へ渡すことです。 順番に一章ずつ書き足すリレー形式。舞台と主要人物だけを最初に決め、細部は書き手に委ねる。真緒は説明を聞きながら、こんな場所で物語を書くことにどんな効き目があるのだろうと半信半疑だった。だが他人の言葉を引き受ける作業が、更生の訓練になるという折口の話は、妙に筋が通っていた。 最初の題材は、海辺の町に帰ってきたある人物の物語に決まった。名前、年齢、曖昧な事情だけを共有し、一人目が導入を書く。二人目がそれを引き継ぎ、三人目が続ける。真緒の番は四人目だった。 最初の原稿はおとなしかった。雨上がりの坂道、錆びた郵便受け、主人公の手にある古い鍵。戻ってきた理由は書かれず、ただ帰還の気配だけが丁寧に置かれていた。ところが次の章で、主人公は鍵ではなく腕時計を持っていた。郵便受けは青から赤に変わり、母親は生きていることになっていた。三人目の章では、今度は主人公の利き手まで変わった。 会議では折口が笑って、創作にはそういう揺らぎもあります、と言った。視点の違い、記憶の脚色、書き手の個性。その説明はもっともだったし、ほかの参加者も深く気にしていないふうだった。むしろ矛盾を面白がる者さえいた。 だが真緒は、印刷された数枚の紙を重ねたまま、しばらく視線を離せなかった。食い違いは雑ではない。わざとらしくもない。どれも、うっかり間違えたにしては妙に似た重さを持っている。鍵と時計。青と赤。右手と左手。どれも取るに足らない差なのに、何かを言い換えるために置かれた印のようだった。 帰室後、真緒は自分の章を書き始めた。主人公が町の高台から海を見る場面を選び、手の中の持ち物には触れず、代わりに耳に残る呼び声を書いた。誰の声か断定しないまま、振り向けない人物の気配だけを置く。書き終えても胸のざわつきは消えなかった。 消灯前の廊下で、無口な青年がすれ違いざまに真緒の持つ原稿を見た。ほんの一瞬、怯えたような顔をしてから、何も言わずに去っていく。その背中を見送りながら、真緒は初めて、この小説はまだ始まったばかりなのに、もう誰かにとっては続きを書かれたくない話なのではないかと思った。窓の外では、島を囲む海が音もなく黒さを深めていた。
孤島綴り、沈黙の継ぎ目
全年齢小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk
