エラベノベル堂

孤島綴り、沈黙の継ぎ目

全年齢

小説ID: cmnenc97j000301mnwniq38lk

9章 / 全10

真緒は白紙の上にペン先を置いたまま、すぐには書き出さなかった。ここで急いで文章にすれば、また誰かの理解しやすい形に削がれてしまう気がしたからだ。机の上には、初稿と修正版と差し替え原稿が何層にも重なっている。そのどれもが嘘ではなく、けれどそのままでは真実にも届かない。真緒は一枚ずつめくり、余白の癖、消された語、残された言い回しを見比べた。すると、矛盾に見えたものが、少しずつ役割を持ち始めた。青年の章は出来事の中心へ近づくための道標で、ほかの章はその道を塞いだり、迂回させたりしている。つまり各章は続きではなく、同じ一点を別の立場から囲んだ証言なのだ。 順番を変えたのは誰ですか。 真緒がそう問うと、返事の代わりに中年の男の喉がひくりと動いた。折口も目を伏せたまま黙っている。だが、真緒が共有端末から書き写した保存履歴には、はっきり痕が残っていた。青年の初稿の直後、管理者権限で並び替えと要約が入る。そのあと中年の男が細部を整え、よく笑う男が比喩へ逃がし、年長の女性が主語を曖昧にする。爪を短く切りそろえた女性だけが、一度だけ修正を拒んで別案を提出していた。温室ではなく倉庫、鍵ではなくつっかえ棒、時計ではなく窓の明かり。名前を変えても、閉じ込められた数分だけは消させまいとしていたのだ。 私も見てたの。 その女性が、ようやく顔を上げて言った。あの日、温室の外までは行かなかった。でも廊下で揉めている声を聞いた。開けたほうがいいって言った。でも誰も、すぐには動かなかった。だから私は、あとから書くしかなかった。 真緒は息をのんだ。告発は青年一人のものではなかった。言葉を奪われた順番が違うだけで、ここにいる何人かは、物語の中でしかあの日に触れられなかったのだ。矛盾を埋め込んだのは青年だけではない。むしろ、はっきり言えない者たちが互いに印を置き合い、消されても別の場所から戻していた。小説は一人の叫びではなく、潰されかけた複数の証言の集積だった。 折口がついに口を開いた。 提出順を管理していたのは私です。順番さえ整えれば、読みやすくなると思っていた。だが本当は、読みやすい形にするたび、責任の流れも整えていた。 その声には、ようやく自分のしたことの輪郭に触れた人間の鈍い痛みがあった。真緒は原稿の束を中央で二つに分けた。隠すための修正と、残すための修正。その境目は思ったより鮮やかだった。施設内の空気が張り詰めたのは、真相が見えたからだけではない。誰が沈黙に加担し、誰が物語の中でしか抗えなかったかまで、明るみに出てしまったからだ。 真緒はようやく最初の一文を書いた。物語は一つではなく、押し黙らされた順番の数だけ入口を持っていた。

9章 / 全10

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