四月の終わり、やわらかな雨上がりの匂いをまとって、真白はひかり荘の門をくぐった。駅から十分、古い商店街を抜けた先にあるその集合住宅は、三階建ての小ぶりな建物だった。外壁は淡いクリーム色で、南向きの廊下には洗濯物と小さな太陽光パネルが並び、植え込みのあいだからは充電端子つきのベンチが顔をのぞかせている。人間とロボットが共に暮らすために改装された建物だと聞いていたが、思っていたよりずっと、ただの生活の匂いがした。 本日付で管理人となります、白峰真白です。よろしくお願いします。 練習してきた挨拶を、管理人室の小さな鏡に向かってもう一度言う。二十二歳。制服はまだ肩になじまず、鍵束の重みだけがやけに本物らしかった。前任者から引き継いだ書類は分厚く、設備点検表、居住者名簿、注意事項、緊急連絡先と、何もかもが整然としている。その最後に挟まっていた一枚だけが、妙に素っ気なかった。 住民同士の揉め事には慎重に介入すること。 それだけだった。 最初に会ったのは、二〇一号室の七瀬という老婦人だった。杖をついた足もとはゆっくりだが、言葉はしゃんとしていた。 新しい管理人さん? 若いのに大変ねえ。でもここは静かでいいところよ。みんな、悪い人じゃないから。 その言い方に、真白は少しだけ引っかかった。悪い人じゃない。裏を返せば、簡単に親しくなれる人たちでもないのかもしれない。 午前のうちに何人かへ挨拶に回ると、その印象は強くなった。子どもを背にした母親は丁寧に会釈したが、部屋の中を見せまいと扉を狭く開けたままだった。三〇二号室の大学生は眠たそうな顔で名乗り、足元で待機していた配送ロボットに先に礼を言った。無口な職人風の老人は、介助ロボットに戸を閉めさせてしまった。誰もが礼儀正しく、誰もが一歩ぶん遠い。 廊下の端では、丸い胴体に細いアームをつけた清掃ロボットが、床の水滴を吸い取っていた。機体側面の表示にはユキマルとある。真白がこんにちはと声をかけると、青い認識灯が一度またたき、それきりだった。愛想のない反応だなと思った直後、泣きそうな顔をした男の子が非常階段の陰から現れた。するとユキマルは進路を変え、植え込みの脇で落ちていた白い花を器用に拾い、その子の靴先へそっと置いた。 男の子は目を丸くし、それから少しだけ笑った。母親に呼ばれて駆けていく背中を見送りながら、真白は首をひねる。清掃経路の学習に、子どもを慰める動作なんて入っていただろうか。 夕方、管理人室で日誌を書いていると、壁の古い振り子時計が目に入った。引き継ぎのとき、故障中なのでそのうち交換予定だと聞かされていた品だ。針は四時十二分を指したまま、ぴたりと止まっている。ところが、一階の自動扉が開いて、誰かが帰ってきた気配がした瞬間、こつん、と小さく音がした。振り子がひと揺れし、秒針が二つ、三つだけ進んで、また静かになる。 真白は思わず立ち上がった。玄関の監視モニターには、仕事帰りらしい女性と、その後ろで買い物袋を提げる補助ロボットが映っている。特別なことは何もない、ごく普通の帰宅だ。それなのに、時計はまるで待っていたみたいに一瞬だけ息を吹き返した。 故障。たぶんそうだ。配線の接触不良、湿気、古い部品。説明はいくらでもつく。けれど、胸の奥には、説明だけでは取りこぼすものが小さく残った。 真白は管理日誌を閉じ、私物のノートを取り出した。表紙のない、どこにでもある大学ノートだった。少し迷ってから、一ページ目に日付を書き、その下に題をつける。 ふしぎ記録。 止まっていた時計、帰宅の瞬間だけ動く。清掃ロボット、落ち込んだ子どもに花を運ぶ。 文字にしてみると、子どものころ秘密基地に宝物を隠したときのような、くすぐったさがあった。証拠にはならない。業務報告に書けば笑われるか、困られるだけかもしれない。それでも真白は、ここで起きる小さな違和感を、ただの見落としにしたくなかった。 窓の外では、入居者たちの部屋に明かりがともり始めていた。食器の触れ合う音、控えめな話し声、充電完了を知らせる電子音。それぞれ別の暮らしが、薄い壁を隔てて折り重なっている。ひかり荘は静かだった。けれどその静けさの下で、誰にも聞こえない呼びかけが、たしかに行き交っている気がした。 真白はノートをそっと閉じ、明日の巡回表を引き寄せた。管理人としてやるべきことは山ほどある。そのかたわらで、もう一つの記録も続けてみようと思う。この建物で、何が誰に応えているのかを知りたかった。
ひかり荘、応答の余白
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