エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

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2章 / 全10

五月に入ると、ひかり荘の朝は少しだけ早くなった。真白が管理人室のシャッターを開けるころには、二階の共同廊下を介助ロボットの規則正しい走行音が通り、三〇二号室の前には配送ボックスが静かに置かれている。生活の段取りは整っているのに、人の気配だけがどこか遠い。その距離の測り方を、真白は少しずつ覚え始めていた。 最初に気になったのは、一〇三号室の鷲尾だった。木工職人として長く働いていた老人で、今は片脚を悪くし、銀色の介助ロボットのトワに支えられて暮らしている。真白が巡回で声をかけても、鷲尾はいつも短くうなずくだけだった。代わりにトワが、通院予定や買い物履歴を正確に答える。二人は毎日同じ部屋で過ごしているのに、会話らしい会話をしていないように見えた。 ある雨の日、管理人室の時計がまた帰宅の瞬間だけ動いた。その直後、鷲尾の部屋から硬いものが割れる音がした。駆けつけると、床に湯のみが散らばり、トワは動きを止めていた。手首の補助アームに小さな不具合が出たらしい。真白が片づけを手伝っているあいだ、鷲尾は黙って破片を見つめていたが、不意に低い声で言った。 そいつは悪くない。昔の弟子より、よほど丁寧だ。 その言葉はトワに向けたもののようで、けれど本人には届いていないみたいだった。真白が修理申請の書類を持って再訪すると、棚の上に木彫りの小鳥が置いてあるのに気づいた。片翼だけ新しい木で継ぎ足されている。聞けば、妻の形見で、数年前に落として壊したのを、トワが毎日作業台の前まで運んできたのだという。鷲尾はため息のように笑った。 礼を言う機会を逃したまま、今さら何を言えばいいかわからん。 真白は、その夜ふしぎ記録に、直ったのはアームではなく言葉のほうかもしれないと書いた。数日後、修理を終えたトワが戻ると、鷲尾はぶっきらぼうに小鳥を差し出した。トワは受け取らず、保管対象外ですと答えたが、認識灯がわずかに明るくなったのを、真白は見逃さなかった。 三〇二号室の朝倉にも、別の静けさがあった。建築を学ぶ大学院生で、設計コンペに落ち続け、研究室にも顔を出していないと七瀬から聞いた。彼の部屋に出入りする配送ロボットのハコベは、毎週決まって模型用の板材や接着剤を運んでくるのに、回収されるのは使われないままの箱ばかりだった。ある晩、エレベーター前で朝倉がハコベに向かって、もう頼まなくていい、とこぼすのを真白は聞いてしまった。相手は無機質な返答しかできないはずなのに、ハコベはその場を離れず、荷台の隅から折れたトレーシングペーパーを一枚押し出した。 それは以前の配送で紛れたものらしく、朝倉が高校生のころ描いた古いスケッチだった。狭い長屋の中庭に、誰もが顔を合わせられる小さな縁側が描かれている。朝倉はしばらく紙を見つめ、やがて苦く笑った。 俺、ほんとはすごい建物じゃなくて、こういう場所を作りたかったんだよな。 真白は何も励まさなかった。ただ、ひかり荘の共用掲示板に、不要になった端材を譲ってほしいというメモを朝倉の名前で貼ることだけ提案した。翌日、鷲尾が無言で木片を置き、二〇一号室の七瀬が古い布を持ってきて、子どものいる部屋からは空き箱が届いた。ハコベはそれらをきちんと三〇二号室まで運び、最後に一歩ぶんだけ後退して道をあけた。 その夜、管理人室の止まった時計は、誰かの帰宅を待つように三度鳴った。真白はノートを開き、奇跡を証明する代わりに、人の胸の中で何がほどけたのかを書き留めた。ひかり荘では、ものはまだ壊れるし、言葉はたびたび足りない。それでも、届かなかったはずのものが、別の形でちゃんと届くことがある。そんな小さな応答が、この建物のあちこちで静かに息をしていた。

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