エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

小説ID: cmnenclbf000601mnr621y6lz

2章 / 全10

麻衣が共有食堂の戸を押すと、昼の光が白く広がっていて、湯気の薄い匂いと温め直した麦茶の匂いが混ざっていた。長机は空いているのに、そこに座る人たちは妙に離れている。人間の住民は窓際のテーブルを選び、ロボットの住民は配膳台の近くに集まっていた。視線は交わらない。皿の音だけが、静けさを埋めるみたいに響いている。 「こんにちは、みなさん」 麻衣が声をかけても、返ってくるのは短い会釈だけだった。誰も食事を終えたくなくて、でも誰かに話しかけるほどのきっかけもない。そんな、細い綱みたいな空気だった。 麻衣は食堂の台に置いたトレーへ手を伸ばした拍子に、うっかりスプーンを床へ落とした。金属音がころんと跳ねて、全員の肩が少しだけ動く。 「あっ」 しゃがもうとした麻衣より先に、窓際の女性が立ち上がった。ほとんど同時に、配膳台の側にいたロボットの住民も同じ動きをした。 「お茶、どうぞ」 「冷たいものを」 二人の手にあったのは、どちらも飲みかけの麦茶だった。しかも、まるで打ち合わせでもしたように、同じタイミングで麻衣の前に差し出される。 「あ、えっと……」 麻衣は一瞬、両方のコップを見比べて固まった。人間の住民もロボットの住民も、自分の手元を見て、次の瞬間には互いの顔を見てしまう。沈黙が落ちたあと、空気がきゅっと縮んだ。 「……かぶったな」 先に口を開いたのは、ロボットの住民だった。 「ほんとだ」 女性のほうも、困ったように眉を下げる。麻衣は思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。 「すみません、落としちゃって」 「いえ」 「別に」 言葉はぶっきらぼうなのに、差し出した手は引っ込められない。その不器用さが、なぜか可笑しかった。麻衣が小さく吹き出すと、女性もつられるように笑い、ロボットの住民も遅れて肩を揺らした。 「じゃあ、半分ずつでもいいですか」 麻衣がそう言うと、二人は顔を見合わせて、今度は同時にうなずいた。 その一瞬だけ、テーブルの間に張っていた糸がふっと緩んだ気がした。麻衣はスプーンを拾い上げながら、ポケットの台帳の端に急いで書きつける。 同じ場面で、別々の人が同じ気遣いを差し出した。気まずさの後に笑いが起きた。断絶の中にも、反射のような優しさがある。 文字にしてみると簡単なのに、胸の奥は少し熱かった。麻衣はコップ越しに交わされた小さな譲り合いを見て、この建物の沈黙は完全な壁ではないのだと、静かに確信した。

2章 / 全10

TOPへ