エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

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9章 / 全10

八月の終わり、ひかり荘の空気は、夏の熱を抱えたまま少しだけ澄んでいた。点検保留の通知が正式に届いても、廊下を流れる気配は浮かれきらない。守れたものがある一方で、守ったからこそ見えてしまった傷もあった。真白はそれを知っていた。ここは急に理想の家族になる場所ではない。ただ、離れたままでも同じ屋根の下にい続ける方法を覚え始めた建物なのだ。 その日の夕方、運営会社との再協議のため、住民たちと担当者がラウンジに集まった。朝倉の改修案は壁に貼られ、由衣は赤ん坊を抱き、鷲尾のそばにはトワが静かに立っている。担当者は資料をめくりながら、全面更新は見直す方針ですと告げた。ただし段階的な改善と個別点検は継続します、と続けた声は、以前よりずっと人の暮らしへ寄っていた。 そこで真白は、机の上にふしぎ記録を置いた。 これ、会社に提出するための書類じゃありません。でも、残しておきたいんです。 誰に向けた言葉ともなく言うと、七瀬がうなずいた。すると穂高が、自分から口を開いた。試験を先延ばしにしてたのは、失敗より、受かった先で何をしたいか言えないのが怖かったんです、と。由衣は、夜に通知音が鳴るたび自分が責められている気がしていたと打ち明けた。鷲尾は長い沈黙のあと、妻が亡くなってから礼を言う相手が減りすぎて、トワにまで言えなくなっていたと低くこぼした。 言葉はつかえながらも、もう引き返さなかった。感謝と後悔と、少しの恥ずかしさが混ざった告白が、狭いラウンジの空気を静かに変えていく。ロボットたちはいつも通り多くを語らない。ただトワは鷲尾の杖がずれない位置へ寄り、ミモザは由衣の背を壁から守るように動き、スピカは穂高の前に冷えた水を置いた。説明のつく動作かもしれない。つかないのかもしれない。もうどちらでもよかった。 そのとき、管理人室の時計が鳴った。こつん、と一度。少し置いて、もう一度。全員がそちらを見たが、玄関の扉は開いていない。真白が立ち上がろうとした瞬間、ユキマルが廊下の奥から走ってきて、管理人室の前でぴたりと止まった。白い花を一輪、床に置く。 次の音は、時計ではなかった。玄関の外から、見知らぬ子どもの笑い声が聞こえたのだ。自動扉の向こうには、内見に来たらしい若い夫婦と、小さな女の子が立っていた。担当者が驚いて確認すると、改善方針の連絡を受けて、入居を再検討したいという問い合わせが今日入ったのだという。女の子はユキマルの置いた花を見て、きれい、と笑った。 真白は胸の奥が不意に熱くなるのを感じた。守るか失うかの話をしていたはずなのに、ひかり荘はその先へ、もう半歩進んでいたのだ。過去を抱えたまま、新しい誰かを迎える場所へ。 運営会社の担当者はしばらく黙り、それから資料を閉じた。 残しましょう。直しながら、ここを。 誰かがほっと息をつき、誰かが笑い、誰かは目を伏せた。奇跡の正体は結局、最後まではわからないままだった。ただ曖昧なまま残ったその何かが、人とロボットのあいだにあった見えない壁を、少しずつ住める厚さに変えていく。 夜、真白は日誌を書き終え、ふしぎ記録の新しい頁を開いた。今日もまた、説明しきれない応答があったと記す。窓の外では、新しく見学に来た家族の話し声がまだ小さく残っていた。ひかり荘は、古い時計を胸に抱えたまま、少し先の未来へ動き始めていた。

9章 / 全10

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