エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

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9章 / 全10

管理室の蛍光灯は、深夜になると少しだけ音が大きくなる。紙の端を撫でるような、か細い唸りが天井から落ちてきて、麻衣はそれを聞きながら台帳を閉じたり開いたりしていた。 増えすぎた。そう思ったのは、紙の枚数ではなく、そこに書いた言葉の重さだった。紙片が揃ったこと、時計が進んだこと、通信機が拾った古い声。誰かの手がどこかで動いた、誰かの沈黙がほどけた、そんな記録を積み上げるほどに、麻衣は自分の文字が住民の奥へ踏み込みすぎている気がしてならなかった。 「私、どこまで書いていいんだろう」 独り言は返らないはずだった。 だが、管理室の扉が、控えめな音を立てて開いた。 「まだ起きておったか」 声の主は、これまで廊下ですれ違っても、ほとんど言葉を交わさなかった老住民だった。背筋は丸いのに、目だけが妙に澄んでいる。 「……こんばんは。どうかしましたか」 老住民は少し迷ってから、麻衣の机の端に視線を落とした。 「お前さんの書くものを、読ませてもろうた」 麻衣の指が止まる。 「私、勝手に記録を見せたつもりは」 「責めとるわけじゃない」 老住民は小さく手を振った。 「ただな、長う生きてくると、誰にも頼れんまま抱え込んだもんが、勝手に形になることがある。病院に行くほどでもない。相談するほどでもない。そうやって、言わんまま置いてきたことが、たまに息苦しくなる」 麻衣は息をのんだ。老住民の声は低く、けれど震えはなかった。隠してきた年月の厚みだけが、静かにそこにあった。 「俺も同じじゃった。困っとっても、頼るのが遅うなってな。気づいたら、誰にも見せん癖だけが残った」 「……そんなふうに、思っていたんですか」 「思っとった。ずっとな」 麻衣は台帳を見下ろした。そこには、他人の沈黙を丁寧に並べた自分の字がある。その字が、急に見知らぬものに思えた。 「私、記録することで近づけると思っていました。でも、近づきすぎているのかもしれないって」 「近づきすぎたら、閉じればええ」 老住民は椅子を引かず、立ったままそう言った。 「記録するだけやない。記録を返すことも、いるんじゃないか」 麻衣は顔を上げる。 「返す……」 「書いたことが、相手のもんでもあるならな。見届けた側だけが持っておるのは、少しばかり不公平じゃ」 その言葉が、胸の奥に落ちた。麻衣はゆっくりと台帳の紐をほどき、最初の頁を閉じる。ページが擦れる音が、やけに大きい。 「そうですね」 ようやくそう言えた。 「記録するだけじゃだめだ。住民に返さないと」 老住民は、満足そうでも驚いたふうでもなく、ただ深くうなずいた。 「うむ。そうしてくれたら、わしも少しは楽になる」 麻衣は、その一言にまた言葉を失った。記録とは、集めるためだけのものではない。誰かに戻して、初めて息をするものなのかもしれない。 閉じた台帳の表紙を、彼女は両手でそっと押さえた。扉の向こうでは、廊下の気配が遠く、静かに続いている。

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