エラベノベル堂

ひかり荘、応答の余白

全年齢

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8章 / 全10

点検が保留になったその日から、ひかり荘がすぐ穏やかになったわけではなかった。むしろ、いったんほどけた緊張の下から、今まで見ないふりをしていた違いがはっきり顔を出した。安全を優先すべきだと言っていた住民は、保留は猶予にすぎないと不安を隠さず、残せてよかったと喜ぶ声は、どこか守りに入った響きを帯びた。わかり合えたと思った翌日に、また少し距離が戻る。その行ったり来たりが、真白にはかえって本当の暮らしらしく思えた。ひとつの言葉で全部が丸く収まるなら、こんなに長く誰も胸につかえを抱えたりしないのだ。 運営会社は追加の聞き取りを始めた。機体ごとの利用状況、住民同士の関係、管理体制。担当者は以前より慎重だったが、数字にならない話にはやはり眉を寄せた。真白はそのたび、ふしぎ記録を業務書類の横に置いた。証拠ではない。けれど、ここで何が支えになっていたかを示すには、あのノートしかなかった。 数日後、ラウンジで臨時の住民会が開かれた。全面更新に賛成だった会社員の男性が、子どものいる家としては怖さが消えないと率直に言うと、鷲尾は珍しくすぐ反論せず、怖いのはわかると低く返した。その沈黙のあとで、由衣が言った。 私、前は機械に任せるのが母親失格みたいで、逆に追い詰められてました。でも、ミモザがいたから助かったのも本当です。だから、残すか替えるかじゃなくて、どう一緒に暮らすかを決めたいです。 その言葉に、穂高が続いた。朝倉は共用部分の改修案を簡単な図にして持ってきていた。古い機体を使い続ける前提ではなく、人もロボットも動きやすい廊下幅、充電位置、見守りの死角を減らす灯りの配置。守ることと変えることを、ようやく同じ紙の上で考えられる形だった。 真白は会の終わりに、ふしぎ記録を皆の前に開いた。自分が書いた字は相変わらず少し頼りない。けれど読み返すと、そこには異常ではなく、誰かが誰かに返してきた小さな応答が確かに積み重なっていた。時計の音、花一輪、戻された問題集、遮られた日差し。どれも些細で、だからこそ失いたくないものだった。 その夜、管理人室で一人になった真白は、通常の日誌を書き終えたあと、新しい頁を開いた。外では誰かの帰宅する足音がして、自動扉が静かに開く。古い時計は少し間を置いて、こつん、と鳴った。前よりもずっと、自然な音だった。 真白はペン先を紙に置く。 ひかり荘では、まだ答えは出ていない。けれど、答えを急いで消してしまわない人たちがいる。 そう書いてから、小さく笑った。管理人の仕事は故障を減らし、揉め事をほどき、今日を明日へ渡すことだ。けれどそれだけでは足りないのだろう。言葉にならないまま行き交ったものを、なくならないうちに見つけておくこと。そのために、日誌の隣にはこれからも、ふしぎ記録が必要だった。

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