屋上の空気は、地上よりわずかに乾いていた。夕暮れの名残が残るころ、麻衣は古い通信機の残骸の前に立ち、住民たちと肩を並べていた。さっきまで中庭にあった張りつめた気配が、ここでは少しだけ薄い。それでも、誰も最初の一言を選べずにいる沈黙は、金属の骨組みに吸い寄せられるみたいに重かった。 「これ、本当に拾えるんですか」 人間の住民が、切れた配線を見下ろしながら言った。 「夕方だけ、微かな音声が入る。管理室の記録にも残っている」 麻衣がそう返すと、ロボットの住民が小さくうなずいた。 「なら、条件は同じですね。今は聞こえなくても、待てばいい」 その言い方に、麻衣は少しだけ救われた気がした。 通信機の横にある簡素な受信端末を起動すると、かすかな雑音が表面を撫でた。風のようでもあり、遠い呼吸のようでもある。誰かが息をのむ。 「来る」 麻衣がつぶやいた直後、雑音の奥から、途切れ途切れの声が浮かび上がった。 「入居者……各位……」 古い、丁寧すぎるほど整った案内音声だった。だが、よく耳を澄ますと、その調子の硬さの奥に、ひどく古い疲れが滲んでいる。 「夕刻の受信を確認。共有設備は、孤立した利用を前提に設計されています。住戸間の接続は、必要最低限に留めてください。情報は各自で管理し、他者への依存を増やさないこと」 「……なんだよ、それ」 人間の住民が低く言った。 「設計者の音声でしょうか」 ロボットの住民が続ける。 「待って」 麻衣は息を止めた。声はまだ続いている。 「交流は、想定外の負荷を生みます。接触を減らし、誤解を広げないこと。それが最適な運用です」 そこまで聞いた瞬間、屋上の誰もが黙った。最適、という言葉だけが、やけに冷たく響く。麻衣は通信機の残骸を見下ろし、胸の奥で何かが静かに形を変えるのを感じた。 この建物は、最初から人を離れさせるように作られていたのだ。 見えない壁が自然だとされ、言葉の隙間が当たり前として積み上げられ、そのうえで誰もが暮らしていた。沈黙は性格ではなく、仕組みだった。 「だから、あの紙片も、時計も」 麻衣の声は、自分でも驚くほど静かだった。 「断絶がある前提だったんですね」 受信端末が、またひとつ雑音を吐いた。今度は音声の終わりかけが重なり、かすれた部分だけが際立つ。 「運用の見直しを推奨……入居者同士の接点は、危険ではなく……」 そこで音は、ふっと切れた。 誰かが息をつく音が、やけに大きく聞こえる。 「じゃあ、今まで起きてたことは」 人間の住民が言いかけて、言葉を飲み込んだ。 麻衣は台帳を抱きしめるように持ち直した。 「奇跡じゃなくて、修正だったんです。最初から割れやすい作りを、みんなが少しずつ埋めてきた」 言葉にすると、ひどく単純だ。でも、その単純さが、逆に胸を打った。 ロボットの住民が受信端末を見つめたまま言う。 「それなら、拾えた声にも意味がありますね」 「ええ」 麻衣はうなずいた。 「誰が何を恐れていたのか、これからは書き直せる」 屋上に風が渡る。残骸の隙間で、まだ微かに何かが鳴っている気がした。麻衣はその音を聞き逃さないように、ペン先をそっと台帳へ落とす。
ひかり荘、応答の余白
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