十月の風は、出汁の湯気をいちばんおいしそうに見せる。そう言ったのは、料理部顧問の篠崎先生だった。たしかにその通りで、校舎裏の調理室の窓を少し開けると、ひんやりした空気に押されて豚汁の香りが廊下へ流れ出し、それだけで誰かのお腹を鳴らせそうだった。 私、朝倉菜々は、鍋の前でお玉を握りしめる。今週末に開かれる地元商店街の名物イベント、秋の汁物コンテスト。料理部は商店街青年部の推薦で出場することになり、看板メニューの豚汁で優勝を狙っていた。去年は準優勝。今年こそ一位を取る。そのために九月の終わりから、放課後のたびに大根を切り、ごぼうをささがきにし、味噌の配合を細かく調整してきた。 うちの豚汁の売りは、最初に豚肉を軽く焼きつけて香りを立たせることと、玉ねぎを少し多めに入れて甘みを出すことだ。派手じゃないけれど、商店街の人たちが食べて、ああ帰ってきたなと思える味を目指している。 そのはずだった。 小さな紙コップに注ぎ、私は一口すすった。舌に最初に触れたのは温かさで、その次に来るはずの丸い旨みが、今日は妙に輪郭だけ立っている。塩気が先に出て、味噌のふくらみが遅い。豚の脂も、いつものように全体をつないでくれない。 無意識に眉を寄せた私を見て、二年の真帆が身を乗り出した。 どう、菜々。 正直に言うね。なんか、違う。 え、と一年の結衣が青くなる。さっきまで明るかった調理室が、急に静まり返った。紙コップを回して皆で飲んでみると、反応は同じだった。まずいわけではない。でも、私たちが目指してきた味じゃない。 昨日の試作までは、もっとまとまってたよねと、真帆が言う。私はうなずきながら、調理台の上を見渡した。今日使った材料は、商店街のいつもの店でそろえたものだ。杉本精肉店の豚こま、丸新青果の大根とにんじん、福田味噌蔵の合わせ味噌。出汁は部室に常備している削り節と昆布で朝引いた。手順も変えていない。火加減だって、いつも通り慎重に見ていた。 なのに、味だけが少しずつ、見えない場所へずれている。 たまたまじゃないですかと結衣は言ったが、その声には自分を安心させたい響きがあった。私もそう思いたかった。でも、料理はたまたまで片づけると、次も同じところで転ぶ。去年のコンテストで一位を逃したとき、それを嫌というほど知った。 私は鍋のふちに浮いた油を見つめた。夕方の光が表面で揺れて、金色の膜が落ち着かない心そのものみたいに震えている。 もう一回、最初から確認しよう。材料も、分量も、店で買った時のことも全部。 真帆が腕を組んで深く息を吐く。時間、あんまりないよ。 わかってる。でも、このまま本番には出せない。 窓の外では、商店街に続く坂の向こうが茜色に染まり始めていた。週末になれば、あの通りに大鍋が並び、人で埋まる。子どもも、お年寄りも、買い物帰りの会社員も、みんな湯気の前で足を止める。あの場所で出す一杯は、ただの部活の成果じゃない。店の人たちが応援してくれて、毎年楽しみにしている人がいて、街の顔になる。 だからこそ、誤魔化せない。 私はエプロンのポケットから買い物メモを取り出した。いつもなら見慣れた店名の並びが、今日はなぜか、暗号みたいに思えた。どこで味が変わったのか。変わったのは私たちの作り方なのか、それとも材料なのか。 鍋の湯気の向こうで、部員たちの目が一斉に私を見る。部長として、その視線から逃げるわけにはいかなかった。 明日、商店街を回ろう。原因、絶対に見つける。 そう言うと、真帆がゆっくりうなずいた。結衣も不安そうな顔のまま、はいと返す。調理室の時計は六時を指していた。いつもなら片づけを始める時間なのに、今日だけは終わりじゃなく、何かの始まりみたいに思えた。
豚汁謎解き帖
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