「じゃあ、今日はこっちでやるね」 香織がそう言うと、模擬店の前に並んだ鍋の湯気が、昼の光を受けてやわらかく揺れた。体育館の壁際には、呼び込みの声や足音が絶えず流れていて、文化祭の熱気が背中を押してくる。けれど香織の目の前にあるのは、騒がしさに負けないくらい大事な、たった一つの鍋だった。 彩花が深呼吸して、持ってきた袋を開く。 「こっちはうちの味噌。少し濃いめ。寒い日に合うやつ」 美紀もすぐに頷いた。 「私は根菜を増やした。甘みが出るから、食べやすいかなって」 凛桜は、少し遅れて小さな包みを差し出す。 「祖母の故郷から来た保存食。これ、ほんの少しだけ」 香織は三つの袋と、準備していた鍋を見比べた。違う家の、違う思いが、今は同じ台の上に並んでいる。 「よし。全部、少しずつ混ぜよう」 「え、全部?」 彩花が目を丸くする。 「うん。ひとつの正解を探すんじゃなくて、みんなの豚汁にするの」 美紀が吹き出しそうになって、でもすぐ真面目な顔に戻った。 「それって、あり?」 「ありにするのが、私たち」 香織の言葉に、凛桜が小さく笑う。彩花も、観念したみたいに肩の力を抜いた。 四人で手分けして具を切り直し、味噌を溶き、保存食を加える。鍋の中で、見慣れた香りと少し遠い香りが静かに混ざっていく。最初はばらばらだったはずの匂いが、ひとつの輪になっていくのを見て、香織は胸の奥が熱くなるのを感じた。 「……悪くない」 彩花がぽつりと言う。 「でしょ。家によって違うの、むしろ面白い」 「面白い、で済むのかな」 凛桜が首をかしげると、美紀が笑った。 「済ませるんじゃなくて、受け入れるんだよ」 そのとき、模擬店の前で立ち止まった影があった。 「ひと椀、もらえますか」 聞き慣れないけれど、妙にやわらかな声。 顔を上げた香織は、言葉を失った。そこに立っていたのは、普段はほとんど姿を見せない校長だった。 「校長先生……?」 彩花が固まる。美紀も、鍋の杓子を持ったまま瞬きを忘れていた。 校長は静かに微笑み、鍋を見下ろした。 「この香り、懐かしいわね。昔、似た匂いの鍋を囲んだことがあるの」 香織が息を呑む。 「もしかして……」 校長は一口分を受け取り、ゆっくりと口に運んだ。そして、ほんの少しだけ目を細める。 「ええ。よく似ている。いえ、似ているだけじゃないわ」 その声は、鍋の湯気よりも静かだった。 「あなたたちのお祖母さん、私の古い友人だったの」 四人の顔が、一斉に見開かれる。思いがけない名前に、思いがけない年月が重なって、目の前の光景が少しだけ遠くなる。 校長はもう一口食べて、ふっと笑った。 「おいしいわ。ちゃんと、みんなの味がする」 香織は、何も言えずにただ頷いた。彩花は目をそらし、凛桜は胸元を押さえる。美紀は鍋の縁を見つめたまま、じっと息を整えていた。 その背後で、和解した少女たちの姿を、校長は何も言わずに見守っている。鍋の前には、もう疑いの影はなかった。代わりに残っているのは、少しだけ不揃いで、それでも温かい、ひとつの完成だった。
検閲済みプロット
豚汁をめぐる女子高校生たちの料理サスペンス。料理部で起こる小さな違和感から、秘密のレシピ、すれ違う友情、真相の判明までを一般向けに描く。
