「……いる、かな」 香織は中庭の隅で足を止めた。夜明け直後の冷たい空気が、まだ眠気の残る校舎の壁を白く撫でている。花壇の縁に置かれたままのじょうろが、昨夜のざわめきを知らない顔で光っていた。 その先に、早紀がひとりで立っていた。肩を小さく縮め、手には見慣れた鍵束を握っている。 「早紀ちゃん」 呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせた。 「ごめんなさい……」 「謝るのはあと。まず、聞かせて」 香織がやわらかく言うと、早紀は唇を噛んでから、何度か目を伏せた。 「倉庫の鍵、私が開けました。でも、鍋を触ったとかじゃなくて……凛桜先輩の忘れ物を取りに行ったんです」 「忘れ物?」 「昨日、ノートと一緒に包み紙を落としてて。あのままだと、誰かに見られると思って」 彩花が少し遅れて追いつき、息を切らしながら立ち止まる。 「じゃあ、言えばよかったのに」 「言ったら、また凛桜先輩が責められると思って……」 早紀の声は震えていた。善意で動いたことは、痛いほど伝わる。けれど、その優しさがかえって疑いを深くしたのも事実だった。 「私は、誰かを守りたかっただけです」 香織は短く息を吐いた。守ろうとした手が、別の手を傷つけることがある。そういう話は、もう何度も見てきた気がする。 「うん。分かる。だけど、隠したら守れないこともある」 早紀はこくりと頷いた。その目が、やっと少しだけ真っすぐになる。 そのとき、少し離れた石段のほうから、凛桜が姿を見せた。眠そうな顔のまま、けれど驚いたように早紀を見ている。 「……それ、私の」 「凛桜先輩、ごめんなさい!」 早紀が勢いよく頭を下げる。手にしていた包み紙を差し出すと、凛桜は一瞬だけ目を見開いた。 「これ、捨てたはずじゃ」 「捨てられなくて、でも持ってると困るかもって……」 凛桜は受け取る手を止めたまま、何かをのみ込むように黙った。 香織はその横顔を見て、昨夜まで絡まり合っていた糸が少しずつほどけていくのを感じた。予算不足を隠した手、味を戻したかった手、忘れ物を守ろうとした手。どれも間違っていたし、どれも完全な悪意ではなかった。 彩花が小さく笑う。 「なんか、すごく遠回りしたね」 「うん。でも、やっと見えた」 香織が答えると、早紀はようやく顔を上げた。中庭の端で、朝の光が花壇の土を少しずつ温めている。 凛桜は包み紙を握りしめたまま、ぽつりと言った。 「……私、ちゃんと話す」 その一言で、空気がまた少し変わる。まだ全部は終わっていない。けれど、疑いの中心にあったはずのものが、静かに別の形へ変わり始めていた。
豚汁謎解き帖
全年齢小説ID: cmneojn6p000y01q73fldr3wi
