始発のベルが鳴る前の駅は、山の息遣いだけが近かった。霧を吸った木の屋根、まだ冷たいレール、倉庫の扉からこぼれる古い油の匂い。その奥で、海斗は木箱をひとつずつ動かしていた。 「そこ、もう少し左。いや、割れ物じゃないけど、雑に置くなよ」 慎の声はいつも通りぶっきらぼうだ。海斗は汗で額に張りついた髪を払って、箱の隙間を覗き込んだ。 「こんな朝から倉庫整理って、車掌見習いの仕事でしたっけ」 「暇なら手を動かせ。始発前に片づける」 そう言いながら慎が差し出したのは、黒ずんだ鉄の鋏だった。先端は鈍く光り、刃の根元に古い刻印がある。 「これ、改札鋏ですか」 「見ればわかるだろ。奥から出てきた。使えるか確かめろ」 海斗が受け取ると、ひやりとした重みが手に落ちた。試しに親指で開閉すると、かち、と乾いた音が倉庫に響く。だが次の瞬間、鋏がほんの少しだけ、鈴みたいに鳴いた。 海斗は目を瞬いた。 「今、鳴りましたよね」 「……何がだ」 「鋏が」 慎の顔色が、わずかに変わった。さっきまでの平然とした横顔が、一度だけ崩れる。 「触るな。いや、違う。持つなとは言わないが、勝手に試すな」 「そんなに大げさなものなんですか」 「大げさじゃない。……ただ、そういう音は、普通はしない」 海斗は鋏を見下ろした。錆びついたはずの鉄が、まるで何かを思い出したみたいに微かに震えている気がする。倉庫の隅には、忘れられた帽子や紙箱が積まれていた。けれど鋏はそれらに反応しない。ただ、海斗の手の中でだけ、ささやくように小さく鳴る。 「誰かが失くした物にだけ、鳴ったりして」 冗談めかして言ったのに、慎は笑わなかった。 「海斗」 「はい」 「その鋏は、しばらくお前が預かれ。客の前では出すな。いいな」 いつになく低い声だった。海斗が頷くと、慎は倉庫の向こう、まだ明かりの薄いホームを見た。その視線の先に何があるのか、海斗にはわからない。ただ、山あいの静けさの底に、言葉にされない古い影が沈んでいる気がした。 始発を待つ空気の中で、鋏はもう一度だけ、ごく小さく鳴った。
改札鋏に鳴る約束
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