エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

1章 / 全10

砂漠の夜は、想像よりもずっと静かだった。風は遠くで砂を撫でるだけで、崩れかけた神殿の外縁には、冷え切った石の匂いが沈んでいる。葵はランタンを低く掲げ、壁面のひびを指先でなぞった。 「……ただの劣化じゃない」 独り言は、乾いた空気にすぐ溶ける。修復師として何度も見てきた割れ方ではない。ひびの角度が、あまりにも規則的すぎた。石が勝手に割れたのではなく、何かがそう見えるように整えたみたいに。 葵はしゃがみ込み、腰袋から修復用の顔料を取り出しかけて、すぐに手を止めた。 「違う。色を戻すんじゃない」 彼女は黒い炭粉を親指に取り、ひびの輪郭だけをそっとなぞる。白い壁に浮かび上がる線は、細い傷跡のはずなのに、少し離れて見ると妙なまとまりを持っていた。古文書で見たことのある、災いを告げる符号に似ている。 葵の喉が、ひゅっと鳴った。 「まさか……予兆の図形?」 あり得ない、と言い切れなかった。ここアストラ遺跡では、装飾と警告が何層にも重ねられている。見せるための絵の下に、誰にも見せたくない意味を隠すこともある。彼女は炭粉の上からさらに輪郭を確かめ、ひびの向きと間隔を目で追った。規則は偶然ではなく、呼吸のように繰り返されている。 神殿の奥から、まだ眠っている石の響きがわずかに返る。葵は立ち上がり、壁に手を当てた。 「これ、修復の前に……読まなきゃいけない」 誰に言うでもなく呟いたその声は、どこか震えていた。修復師としての仕事は、壊れたものを直すことだ。けれど今、彼女の目の前にあるのは、直すべき傷ではなく、何かを知らせようとしている傷だった。 葵はランタンの灯をひとつだけ強め、炭で浮かんだ線を見下ろした。砂漠の夜明けまでは、まだ少しある。その短い静けさの中で、彼女は確信に近い不安を抱き始めていた。

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