砂漠の朝は、遠くから見るぶんには静かな金色の海に似ている。だが発掘都市サハルに降り立った七瀬燈子は、熱の気配が地面の下でじっと牙を研いでいることを、靴底越しに感じ取っていた。乾いた風は頬を撫でるというより、古い紙をめくる指先のように肌の水分をさらっていく。空港代わりの簡易滑走路から遺跡地区へ向かう車の窓越しに、土色の建物と白い天幕、無数の足場が見えた。都市という名に反して、ここは発見の途中にある場所だった。 燈子は壁画修復師として各地の遺跡を回ってきたが、今回の依頼は異例だった。国際調査隊が、神殿内部の壁画に奇妙な損傷が生じているとして、修復と記録の両面から専門家を求めたのだ。損傷は広がり方が不自然で、通常の乾燥や地圧では説明しにくいという。 神殿は発掘都市の中心から少し外れた岩丘の腹に口を開けていた。内部へ一歩入ると、外の白熱は嘘のように遠のき、代わりに冷えた石の匂いが肺へ落ちてくる。案内役の研究員、アディールが照明を向けた先で、壁画はまだ鮮やかな赭と青を保っていた。行列をなす鳥、うねる水路、星の輪郭を抱いた人々。その上を、細いひびが幾筋も走っている。 燈子は脚立に上がり、息を潜めて壁に顔を寄せた。ひびはただの劣化ではなかった。線が交差する角度、分岐の間隔、止まる位置に妙な節度がある。まるで見えない手で書き込まれた追記のように、元の絵柄を避けながら配置されていた。 「昨日の夜には、ここまで広がっていなかった」 アディールの声に、燈子は返事をせず、手帳へ線を写した。鳥の列の上に三本、青い帯の縁に弧を描く一本、壁面の北側に短い裂け目が二つ。奇妙なのは、それらが互いに無関係に見えて、全体では一つの配置になっていることだった。 その日の夕方、宿舎の机で彼女は記録写真と地図を並べた。神殿の北壁で増えた短いひびを、都市周辺の観測点に重ねる。すると、ひびの向きが翌日の強風予報とほぼ一致していることに気づいた。偶然だと片づけるには、胸の奥が妙にざわつく。 翌日、予報より早く砂嵐が来た。警報が鳴るより先に空は曇り、砂は遠くの地平から波のように押し寄せた。作業員たちが資材を覆い、天幕を押さえるなか、燈子は神殿へ駆け込んだ。昨日写したひびの一部が、さらにわずかに伸びている。しかも今度は、水路を描いた青の帯に沿って細かな裂けが増えていた。 嵐が去ったあと、調査隊の会議で地下貯水区画の水位変動が報告された。流れが急に変わり、南側の井戸が浅くなっているという。燈子は手帳を開き、青い帯に沿うひびを示した。誰かが息をのむ音がしたが、年長の地質学者は眉をひそめただけだった。 「現象を結びつけるには早い」 もっともな言葉だった。それでも燈子には、壁が沈黙しているようには見えなかった。古代の絵は飾りではなく、今日へ届く寸前の言葉を抱えている。そう思わせる規則が、ひびの一本一本に宿っている。 会議のあと、若い測量士のミラが小声で言った。 「私も揺れを感じたの。今朝、東区画で。計器に出るほどじゃないけど」 燈子はうなずき、神殿の複写図を抱え直した。砂漠の外縁で日が沈み、空は紫から群青へゆっくり冷えていく。その色の変化まで、壁画の顔料にどこか似ていた。彼女は気づき始めていた。ここでは過去は埋もれているのではない。石の内側で目を覚まし、明日の異変をひびという文字で書きつけているのだと。
壁画ひび割れ予兆録
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