エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

2章 / 全10

夜がほどけきるより少し前、葵は神殿の修復足場に立っていた。足元の板は乾いた風にきしみ、白い壁面には、昨夜炭粉で浮かび上がった線がまだ薄く残っている。彼女は古文書の写しを膝の上に広げ、灯りに透かしながらひびの配置を見比べた。 「……やっぱり、合う」 隣で資料箱を押さえていた若い作業員が息をのむ。葵は指先で古文書の一節を追った。崩落の前兆を示す符号は、単なる迷信ではない。壁面のひびは、記録にある危険の並びとほとんど同じ角度で連なっていた。 「これ、明日のことを示してる」 「明日?」 「うん。地盤が落ちる。たぶん、神殿の下が先に」 口にした瞬間、自分でも背筋が冷えた。修復師の直感ではなく、古い文字と目の前の傷跡が、同じ答えを差し出している。 葵は足場を降り、調査隊の仮設連絡机へ向かった。通信端末の前で、彼女は一度だけ息を整える。 「中央神殿の壁画に、崩落予兆があります。発掘は止めてください。少なくとも、今日の掘削は」 画面の向こうに現れた真斗は、眉ひとつ動かさなかった。整った声が、砂を払うみたいに淡い。 「葵、修復の見立てだけで現場を止めろと?」 「見立てじゃない。古文書と一致しています」 「一致の解釈はいくらでもできる。こちらは調査を優先する。成果を止める理由にはならない」 葵は唇を噛んだ。 「でも、もし本当に崩れたら」 「その時はその時だ。今は継続する」 通信が切れる。端末の無機質な沈黙だけが、やけに大きかった。 「……そんな」 背後で、作業員が不安そうに足を引いた。葵は握った写しを見下ろし、ひびの連なりをもう一度目でなぞる。止められないなら、証拠を積むしかない。けれど真斗の冷たい返答は、ただの否定ではなく、何かを急いでいる者の声にも聞こえた。 葵は古文書を胸に抱え直し、足場の上から神殿全体を見上げた。石壁は静かだ。それでも、奥底にひそむ揺れだけが、今にも目を覚ましそうだった。

2章 / 全10

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