エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

2章 / 全10

翌朝、燈子はまだ人の少ない神殿に入った。夜のあいだに冷えた石壁は、掌を当てると水面の裏側のように静かだった。だが静かなのは表面だけで、壁の奥では何かが絶えず形を変えている。彼女は北壁から西壁へ、ひびの位置を一つずつ薄紙に写し取った。鳥の列の頭上に生まれた短線は風向きを示す矢のようであり、水路を囲う波形の裂け目は地下の流れの癖をなぞっているようでもある。ばらばらに見えた印は、壁面全体で読むと一定の順序を持っていた。空、水、地、その三つの層が干渉し合うときにだけ現れる警告の文法。壁画は飾りではなく、都市を包む自然の癖を読み替える装置だったのかもしれない。古代の人々は未来を予言したのではない。ただ、異変が起こる直前の世界のささやかな歪みを拾い、それを石に翻訳する方法を知っていたのだ。 その仮説を確かめるため、燈子は観測記録の閲覧を求めた。だが資料室にいた管理担当は、隊長の許可が下りていないと言って棚を閉ざした。昨夜までは自由に見られた地盤計の記録まで、今朝から閲覧制限がかけられている。不可解だった。会議でひびの規則性を示して以降、研究員たちの視線に目に見えない膜が張ったように感じる。アディールは以前どおり穏やかだったが、言葉を選ぶ回数が増えた。測量士のミラは東区画の最新図面が回収されたと耳打ちし、地質班の一部が未公開区画へ夜間に出入りしているとも教えた。 昼すぎ、燈子は制限されたはずの南回廊へ続く扉の前で足を止めた。封印用の蝋は新しいのに、床の砂には今朝の靴跡がいくつも残っている。誰かが閉ざしながら、同時に使っている。胸の奥で乾いた鈴のような違和感が鳴った。彼女が身をかがめて足跡を見ていると、背後から低い声がした。 「そこは構造が不安定だ」 振り向くと、副隊長のラシードがいた。発掘の成果で名を知られる考古学者で、記者対応もほとんど彼が担っている。整った笑みを浮かべているが、目は少しも笑っていない。燈子が壁画の追加記録を取りたいと言うと、彼は明日以降に調整するとだけ答えた。その明日が来る前に、壁の言葉は書き換わってしまうかもしれないのに。 夕方、宿舎に戻った燈子は、これまでの複写を床いっぱいに広げた。ひびの増減を時間順に並べ、都市地図と重ねる。すると、壁画の中心に描かれた星形の祭壇から放射状に伸びる細線が、発掘都市の主要区画の配置と一致した。しかも、立ち入りを制限された南回廊の先にあたる部分だけ、近二日でひびの密度が急に高くなっている。そこは壁画の解読上、ただの倉庫ではない。警告を受け取るための要となる場所だ。 窓の外では、日暮れの風が天幕を小さく鳴らしていた。砂漠は何も語らない顔で広がっている。それでも燈子には分かった。誰かが異変そのものより、異変を告げる仕組みの価値を量っている。都市を守る知恵としてではなく、独占すべき発見として。壁が伝えようとしているのは、明日の砂や水の動きだけではないのかもしれない。耳を塞いだ人間がいるとき、警告はそれ自体で新しい危険になる。燈子は薄紙の端を押さえ、南回廊へ続く線を指先でなぞった。明日を待てば遅れる。そういう種類の沈黙が、いま神殿の中に満ち始めていた。

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