エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

3章 / 全10

夜明け前、宿舎の壁はまだ冷えていた。燈子は複写図を筒に収めると、誰にも告げずに神殿へ向かった。東の空が白むころ、発掘都市は眠りと作業の境目にあり、人の気配は砂の上に薄く散っているだけだった。南回廊の扉の前に立つと、昨日見た靴跡の上へ新しい砂がうっすらとかぶさっていた。隠そうとして、隠しきれていない。彼女は指先で蝋封に触れ、ひびの入った縁を見つけた。丁寧に閉ざされた扉ほど、かえって急いだ手つきが残るものだ。慎重に押すと、扉は思ったより軽く内側へ開いた。ひやりとした空気が流れ出し、乾いた石の匂いにまじって、わずかな湿り気が鼻を打った。神殿の深部に水の気配がある。昨日までの仮説が、胸の奥でゆっくりと形を結んだ。古代の警告装置は、壁の表面だけで完結していない。地中の動きと結びついて、都市全体の息づかいを映しているのだ。 回廊の先には、低い天井の部屋があった。中央に浅い石盤、その周囲に星を崩したような溝。壁面には表の壁画より簡素な線刻が続き、鳥でも人でもなく、流れと振動だけを記した図のように見える。燈子が照明を向けると、溝の一部にごく薄く水が残っていた。乾ききった砂漠の地下で、水は鏡より雄弁だ。彼女は膝をつき、複写図と照らし合わせた。神殿中央の星形は象徴ではなく、この部屋の平面そのものだった。そして星の各端から伸びる線は、都市の井戸、貯水区画、観測塔、居住区へつながる経路を示している。壁画に現れるひびは、ここで受けた歪みが地上の絵に書き出されたものなのだろう。まるで都市全体が一枚の膜になり、異変の前触れを石へ伝えているようだった。 足音がして、燈子は振り返った。来たのはミラだった。息を切らし、小さく扉を閉める。 「やっぱりここにいた。昨夜、資材記録を見たの。南回廊から運び出された箱がある。でも目録は空欄だった」 燈子は石盤を示し、見つけた対応関係を手短に話した。ミラの顔から迷いが薄れ、代わりに測量士らしい鋭さが戻る。 「なら、東区画で感じた揺れもここに反映されるはず」 その言葉が終わる前に、石盤の溝で残り水がかすかに震えた。ごく小さな波紋だったが、一定の間隔で三度続く。燈子は壁面の線刻に目を走らせる。三つの短い印、その先に南西へ傾く長い裂け目の記号。昨夜まとめた複写にも、同じ並びがあった。小規模な揺れのあと、水脈の偏りが起こり、遅れて地盤の沈み込みが来る。しかも中心は居住区に近い。 「今日中に伝えないと」 燈子が立ち上がったとき、回廊の入口に影が差した。ラシードだった。背後には管理担当と警備員が一人ずついる。彼は部屋を見回し、ため息に似た声で言った。 「だから立ち入りを制限したんだ。解釈が固まる前に不安を広げられては困る」 燈子は真正面から見返した。 「困るのは誰にとってですか。都市の人たちにとってではないはずです」 ラシードの口元から笑みが消えた。発見の公表権、調査主導権、保存計画の名目。彼の慎重さの輪郭が、燈子にはようやく見えた。壁が告げるものを、彼は災害情報としてではなく、発掘都市の価値を左右する鍵として扱っている。もし警告装置の存在が確定すれば、遺跡の管理権も研究の名声も大きく動く。だから彼は、明日までを何度も先延ばしにしてきたのだ。だが石盤の水は、そんな人間の都合より早く揺れていた。燈子は複写図を胸に抱え、ラシードの脇をすり抜ける隙を測った。壁の沈黙は、もう沈黙ではなかった。

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