エラベノベル堂

壁画ひび割れ予兆録

全年齢

小説ID: cmneptu6c000301nws90plb09

3章 / 全10

午後の光は、測量室の細い窓から斜めに差し込み、積み上がった図板の端を白く照らしていた。葵は机いっぱいに広げた修復記録を一枚ずつ並べ、壁画のひびの位置に細い赤鉛筆で印をつけていく。紙の擦れる音だけが、部屋の乾いた静けさに混じった。 「ここ……違う、こっちじゃない」 独りごちては、寸法と角度を何度も確かめる。神殿の壁面に走った傷は、ただ崩れた形には見えなかった。記録を重ねるほど、線はある方向へ寄っていく。葵は地図の上に半透明の記録紙を重ね、地下の古い水路を示す薄青の線と照らし合わせた。 「……一致してる」 思わず声が漏れる。ひびの配置は、地下深くを走る水脈の位置と重なっていた。しかも、いくつかの裂け目は水路の分岐点を避けるように折れ曲がっている。 「水の道をなぞってるみたいだね」 隣から静かな声がした。現地の記録係、理仁だった。彼は葵の横に腰を下ろし、乱れた紙束を手早く揃える。 「偶然にしては、あまりに綺麗すぎる」 「うん。地盤の弱い場所を、最初から知っていたみたい」 葵は地下水路の図を指でなぞった。砂の下に眠る古い流れは、見えないぶんだけ厄介だ。壁画のひびがそこを避けずに通っているなら、単なる装飾ではなく、地面の危うさを示す印の可能性がある。 「壁画って、飾りじゃなかったのかもしれない」 理仁は少し黙って、それから小さく息を吐いた。 「防災の暗号、か」 「まだ断定はできない。でも、そう考えると全部つながる」 葵は記録用紙に目を落とし、数値を書き加える。ひびの角度、間隔、崩れ方。どれも水路図と呼応していた。読み解くたび、胸の奥で冷たい手が輪郭を整えていく。 「真斗には、もう一度言ったほうがいい?」 理仁の問いに、葵はすぐ答えられなかった。午前中のあの声が頭に蘇る。止める理由にはならない、と切り捨てた、平坦な声。 「言うよ。だけど、たぶん……すぐには信じない」 「それでも?」 「それでも、記録は残す。ここにあるのは傷じゃなくて、伝言かもしれないから」 理仁はうなずき、机の端に散った紙をもう一度揃えた。 「なら、僕も手伝う」 その言葉は大きくないのに、測量室の空気を少しだけ変えた。葵は短く息をつき、赤鉛筆を置く。窓の外では砂漠の光がなお強いまま、発掘都市の輪郭を揺らしていた。彼女は地図の上の印を見つめ、ひびが壁の傷ではなく、この都市の深いところにある危険を告げているのだと、静かに確信し始めていた。

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