夜の中層区は、昼間よりも水の匂いが濃くなる。塔と塔のあいだを渡る細い橋の下で、水路は黒い帯のように光を吸い込み、壁面を走る無数の管だけが月明かりを鈍く返していた。アサギは工具箱を脇に置き、点検口の蓋に耳を寄せた。金属の冷たさの向こうで、いつもの低い振動が息をしている。ごう、ではない。どどど、でもない。腹の底に触れてくるような、長く曳く唸り。その合間に、短く区切るような震えが混じる。 彼は胸ポケットから小さな耐水手帳を取り出し、炭芯で印を打った。長い線、短い点、少し間をあけてまた線。誰に見せるでもない、自分だけの記号だ。最初はただの癖だった。配管技師として働き始めて七年、音で継ぎ目の緩みも、水圧のむらも、おおよそわかるようになった。だからこそ、その振動が設備の老いとも、夜間の送水切り替えとも違うと感じたのだ。 「またやってるのか」 振り向くと、夜番帰りの同僚が橋の欄干にもたれていた。油染みのついた外套を肩に引っかけ、呆れたように笑う。 「管に話しかけても返事はしないぞ」 「返事はしてるさ。聞き取れないだけで」 アサギがそう言うと、同僚は肩をすくめた。 「職人ってのはみんな少しずつ変わってくもんだな」 軽口を残して去っていく足音が、橋板を細かく鳴らした。アサギはその背を見送り、再び蓋へ耳を当てた。今夜の音は昨夜よりも短い間隔で繰り返されている。偶然にしては整いすぎている。一定の拍のあとに二つの弱い震え、そのあと長い沈黙。まるでどこか遠くから送られてくる合図のようだった。 中層区は都市の背骨だった。上層区の貯水施設から落ちてくる水を受け、下層区へ分配する。水路、弁室、圧力塔、沈殿槽。人が眠るあいだも都市は休まず、水は石と金属の迷路を巡り続ける。その流れを守るのがアサギの仕事で、誇りでもあった。だが最近、その誇りの足もとで、都市そのものが歯を食いしばっているような音を立てている。 翌朝、彼は勤務の合間に配管図の端へ昨夜の印を書き写した。何日分も重ねるうち、紙の余白は細かな線と点で埋まりつつある。最初は無秩序に見えた並びが、眺めていると奇妙な偏りを持っていた。決まって深夜、決まって中層区北寄りの主管で強くなる。そして雨の気配がある日は、少し早まる。 窓の外では、水運の小舟が朝霧を裂いて進んでいた。塔の影が水面で揺れ、そのたび都市全体が巨大な機関の内部であることを思い知らされる。誰もがその便利さに慣れ、音を背景として聞き流す。だが、背景にしては低すぎた。重すぎた。何かが始まる前にだけ生まれる、押し殺した前触れに似ていた。 その夜もまた、アサギは一人で巡回路を外れ、古い弁室へ降りた。壁には白い塩の筋が残り、床はひやりと湿っている。点検灯を消すと、闇の中で音だけが輪郭を持った。長、短、短、長。沈黙。長、短、短、長。胸がゆっくりと強く打つ。これはただの故障ではない。都市のどこかで、誰かが水を使って何かを伝えている。あるいは、都市そのものが、誰にも届かない声で唸っている。 アサギは手帳を開き、新しい印を刻んだ。書き終えた瞬間、足元の管がかすかに震え、遠くで大きな水門が目を覚ますような響きがした。彼は顔を上げる。今まで記録してきたものが、ただの思いつきではなかったことを、闇の深さよりはっきりと悟っていた。
水都脈動譜
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