エラベノベル堂

水都脈動譜

全年齢

小説ID: cmnepu0wq000601nws8diib3v

1章 / 全10

配管路の奥は、夜になると海より静かだった。灯りは保守灯がひとつ、白い円を足元に落としているだけで、その外側は青黒い水脈の迷路になっている。朝霧悠斗は点検棒を肩に担ぎ、壁沿いの鉄梯子を抜けながら、耳を澄ませていた。 「……今日は妙だな」 独り言は、管の反響に吸われるように消えた。いつもなら、ただ低く鈍い圧のうねりが続くだけだ。だが今夜は違う。手のひらに伝わる振動が、途切れそうで途切れず、どこか言葉の節回しに似ていた。強く押して、少し息をついて、また押し返す。その繰り返しが、まるで誰かの声の輪郭を探るみたいに感じられる。 悠斗は立ち止まり、管に額を寄せた。 「音、か?」 耳を当てると、ただの機械音ではない。一定の間隔で跳ねる水圧が、短い旋律のように重なっている。上がり下がりはばらばらなのに、聞いているうちに妙なまとまりが生まれた。呼びかけているようでもあり、返事を待っているようでもある。 背筋に、薄い鳥肌が立つ。 「こんなの、整備記録にあったか……?」 答えはすぐ出なかった。だから悠斗は、懐から古びた音符帳を取り出した。紙の端は湿気で少し波打っているが、まだ書ける。鉛筆を走らせ、聞こえたままの高低と間を、慣れた手つきで線に落としていく。 一小節、また一小節。 書き写すたび、旋律はただの異常値ではなくなっていった。管の一本ごとに違う揺らぎが、離れた場所どうしで呼応している。まるで都市そのものが、深いところでうなっているみたいだった。 「……都市の、うなり」 その呟きは、思った以上にしっくりきた。悠斗は少しだけ息を吐き、ページの隅に日付と地点を書き込む。これなら、あとで見返せる。いや、見返さなければならない。 次の管へ移ろうとしたとき、振動がふっと変わった。低く沈んだ圧の奥から、細い音が立ち上がる。人の声に似ている、と言えば大げさだろうか。けれど悠斗には、確かに何かが訴えかけてくるように聞こえた。 「……何を伝えたいんだ、お前」 返事はない。ただ、管の脈動だけが、もう一度ゆっくりと胸を叩いた。 悠斗は音符帳を開いたまま、次の音を逃すまいと鉛筆を握り直した。

1章 / 全10

TOPへ