エラベノベル堂

水都脈動譜

全年齢

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2章 / 全10

それから十日、アサギは昼の仕事をこなしながら、夜ごと記録を重ねた。印の列は手帳一冊を埋め、ついにただの癖では片づけられない形を浮かべはじめる。強い振動が現れる時刻は、決まって上層区の大貯水塔で夜間の水位調整が行われる頃と重なっていた。しかも間隔のずれは、天気の崩れと連れてくる風向きにまで呼応している。音は下から上へ響いているのではなく、上で決められた何かが、都市じゅうの管を伝って下へ染みてきているのだ。 アサギは休憩時間を見つけては、旧友のシオンを訪ねた。上層区外縁の気象塔で働く観測員の彼は、昔から雲の癖を読むのが得意だった。細い階段を上りきった観測室で、シオンは硝子窓の外に積み上がる鉛色の雲を顎で示した。 「三日か四日で大きいのが来る。南東から押し込む風だ。水面が先に荒れる」 アサギが手帳の印を見せると、シオンの軽い目つきが変わった。 「この強くなる日、気圧の落ち方と合うな。備えなら早すぎる。試してるみたいだ」 試している。その言葉は冷えた針のように残った。 さらに彼は中層区の図書保管庫へ向かった。石壁に囲まれた薄暗い書庫で司書のユナは、埃を払った記録簿を何冊も机へ積み上げた。アサギとは点検口の鍵台帳をめぐって顔見知りになった女で、無駄口は少ないが、紙の匂いのする人だった。 「上層区管理局の公開文書には、嵐への備えとして貯水量の再配分、としかないわ」 ユナはそう言ってから、声を落とした。 「でも閉架に残っていた古い審議要旨に、似た文言があるの。非常時に下層域の放水路を優先開放する案。採用見送りになった記録だけれど」 見送り。過去形のはずのその案が、いま管の唸りとして息を吹き返しているのではないか。アサギは要旨の一節を読み、指先に汗がにじむのを感じた。都市中枢の圧力保持を最優先とし、必要なら周縁区画への流量集中を許容する。言葉は穏やかだが、意味は明白だった。下へ一気に水を落とす。 その帰り、中層区の渡り橋から下層域を見下ろした。低い屋根が水路ぎりぎりに並び、夜市の灯りが揺れている。子どもが桶を転がし、洗濯物が細い縄で風に鳴る。そこは図面の余白ではなく、人の暮らしそのものだった。 夜、アサギは北主管の弁室へ降り、いつもより長く耳を澄ませた。長、短、短、長。少し置いて、これまでなかった深い脈動が二度。まるで印の区切りが変わったようだった。彼は手帳に書きつけ、ふと気づく。これは単なる繰り返しではない。段階がある。準備、試験、確認。そう読めば、今夜の新しい脈動は次の工程を示している。 翌朝、シオンが蒼い顔で中層区まで降りてきた。 「進路が固まった。大嵐になる」 ほぼ同時に、ユナから短い伝言が届く。上層区で臨時会合、出席者名簿に貯水施設主任の名あり。 偶然ではつながりすぎていた。アサギは工具箱の底に手帳をしまい、都市の配管図を丸めて脇に抱える。計画が噂の影のままなら、まだ止められる余地がある。全容を知らなければ、誰にも伝えられない。 昼の鐘が鳴る中、彼は上層区へ続く昇降機塔を見上げた。雲は低く垂れ込み、塔の上半分を灰色に呑み込んでいる。都市は今日も静かに水を巡らせていたが、その静けさの裏で、見えない手が大きな弁に触れようとしている気配があった。アサギは足を踏み出す。うなりの正体を、もう聞き流すことはできなかった。

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