エラベノベル堂

水都脈動譜

全年齢

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10章 / 全10

「来る」 千尋の声は短く、けれど震えていなかった。悠斗も頷く。金具にかけた手に、通路の奥から押し寄せる圧がじわりと伝わってくる。壁の向こうで、都市が大きく息を吸い込んだようだった。 「せーので開けるわよ」 「分かった」 二人が同時に力を込めた瞬間、近くに集まっていた住民たちが一斉に動いた。年配の配管士がレバーを支え、若い作業員が別の弁へ走る。誰かが叫ぶ。 「そっちを先に! 流れが偏る!」 「押さえて、急ぐな!」 下層区のあちこちから集まった手が、手際よく、しかし必死に動いた。悠斗は初めて見る顔も多いのに、不思議と誰もが同じ音を聞いている気がした。都市のうなりだ。怖さと切迫が混ざった、深い鼓動。 「今!」 千尋の掛け声で、隠し弁が次々と開く。重たい唸りが地下を駆け抜け、行き場を失っていた水の勢いが別の道へ逃れていく。足元の振動が、さっきまでの圧迫から、荒い奔流へ変わった。 「耐えてくれ……!」 悠斗は歯を食いしばり、弁の角度を見守る。急に静かになる瞬間はない。だが、確かに破局へ向かう激しさがほどけていくのが分かった。通路の先で誰かが歓声とも息ともつかない声を上げる。 「下がったぞ!」 「こっちも持ちこたえた!」 水門の向こうで、逃がされた流れが大きくうねり、やがて都市の奥へ吸い込まれていく。どこかで金属が軋み、別のどこかで安堵のため息が落ちた。下層区全域を覆いかけていた危機は、ぎりぎりのところで逸らされたのだ。 そのころには、監査官が持参した記録の束が広場へ届いていた。上層区の管理記録、押し込まれた修正印、隠し弁の配置図。悠斗の音符帳と照合され、隠していたはずの流れは紙の上であっけなく露わになる。計画の痕跡はこれで公開された。 「これで、逃げられないわね」 千尋が低く言った。 「……うん」 悠斗は返す。胸の奥に熱いものがあるのに、喜びと怒りがまだ綺麗に分かれない。ただ、もう目の前の都市は、誰か一部の都合だけで曲げられるものではなくなっていた。 水門の振動が少しずつ落ち着いていく。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが黙ったまま空を見上げた。夜の闇の中で、下層区は大きく傷つかずに済んだ。 それからしばらくして、悠斗の音符帳は自治評議会の机に置かれた。都市を救った記譜は、新たな配管設計の基準資料として正式に採用される。会議の終わり際、評議会の一人が淡々と言った。 「朝霧悠斗。あなたを記録官に任命する。都市の水音を、後世に残してもらう」 「……記録官、ですか」 「そうだ。技師としての目も、耳も、必要になる」 悠斗は言葉を失い、隣の千尋を見る。彼女は肩をすくめた。 「悪くないじゃない」 「いや、でも俺は」 「配管を直すだけが仕事じゃないって、もう知ってるでしょ」 その一言に、悠斗は小さく笑った。胸の中で、あの旋律が静かに鳴り続けている。救った都市は、終わったのではない。記録され、受け継がれ、次へつながる。 夜が深まり、窓の外で遠い水音がまた揺れた。悠斗は目を閉じず、その響きを確かめる。 「……聞こえる」 「何が」 「都市のうなりだ」 彼は音符帳の空白を思い浮かべる。これから書くべき音は、まだたくさんある。

検閲済みプロット

水上都市の配管技師が、夜ごとに水圧が奏でる「都市のうなり」を楽譜化していくうち、上層区が隠す洪水計画を暴くディザスタードラマ。

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