エラベノベル堂

水都脈動譜

全年齢

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9章 / 全10

管理局員たちの顔つきが変わったのを見て、アサギはようやく次の言葉を押し出した。 「上へ伝えてください。放水計画は中止じゃない。切り替えるんです。北に集めるな。東と南へ薄く分ける」 監督官が荒い息のまま問う。 「そんな操作、今夜の人手でできるのか」 「できます。全部は要りません。要所だけ押さえれば、水は勝手に道を選ぶ」 彼は赤鉛筆で図面の三か所を叩いた。北主管の補助弁、旧東分岐、南沈殿槽の流入口。さらに西倉庫群の地下小弁を結ぶ。線は複雑だったが、音で追えば順番ははっきりしていた。まず西の尖った流れを鈍らせる。次に東の旧分岐を半開。最後に南へ逃がし口を足す。そうすれば一気に落ちる刃のような水勢が、幅のある重い波に変わる。 局員の一人がなおも迷う顔をしたが、ハルが前へ出た。 「こいつの言う通りだ。さっき北でやって、唸りが変わった。数字より早い」 現場の技師の言葉は、紙よりも強くその場を動かした。監督官は決断したように頷き、連絡筒を局員へ押しつける。 「上層区へ至急伝令。第六貯水槽の段階開放を凍結、北系統圧保持を解除。理由は旧経路の連動確認、現場判断により再構成中と書け」 局員が走り去ると同時に、シオンが高架通路の向こうから戻ってきた。肩で息をしながらも、その目はまだ空を測っている。 「中心雲が来る。長くは保たない。でも、一番ひどい押し込みは半刻だ」 半刻。その言葉が全員の背を押した。 アサギたちは再び散った。西では小弁を刻むように締め、東では旧分岐の開度を呼吸みたいに合わせる。南では沈殿槽の泥を掻き上げ、眠っていた導水管へ最初の流れを通した。どこでも、人の手が足りない分を、人の数で埋めた。荷運び人が綱を引き、書庫番が記録板を支え、夜番帰りの工員が濡れた階段を駆け上がる。 その合間にも、アサギは何度も点検口へ耳を当てた。都市のうなりは怒り狂う獣ではなくなり、苦しみながらも道を探す息遣いへ変わっていく。長、短、短、長。深い脈動。返りは一度。次は浅い。まだ危ういが、崩れる音ではない。 やがて上層区から短い返答が届いた。放水の全面実行は保留。現場の再計算を優先。遅すぎるほど遅い判断だったが、それでも都市を真っ二つに裂く刃は鞘に戻った。 雨脚はなお激しく、危険が消えたわけではない。それでも避難の列は途切れず、高い通路の灯りは少しずつ増えていった。下から見上げれば、塔と橋のあいだに、小さな星が連なっているように見えただろう。 アサギは濡れきった手帳を閉じた。転がり出したのは、ただの告発では終わらない夜だった。管理局の計画も、古い設計図も、もはやこの街の全体を語れない。都市は忘れられた水路まで含めて生きている。その事実を、今夜のうなりが誰より先に知っていた。 次にやるべきことは明白だった。嵐の頂で流れを持ちこたえさせ、そのあとで、この音の地図を新しい設計図に変えること。アサギは顔を上げ、暗い水の匂いを吸い込んだ。まだ終わってはいない。だが都市はもう、黙って犠牲を選ばされるだけの器ではなかった。

9章 / 全10

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