夕暮れの赤が、樋門のコンクリートを鈍く染めていた。警報の余韻はまだ遠くで震えていて、通路の足元を伝う風まで落ち着かない。悠斗は音符帳を胸に押し当て、千尋と並んで点検通路を急いだ。 「こっち、で合ってるのよね」 「合ってる。最後の小節が、ここを指してる」 悠斗は走りながら、さっき見抜いた配置図を何度も思い返した。隠し排水弁は一つではない。曲線に見せかけた符号が、樋門の奥へ、さらに手動弁の位置へと続いている。音符帳は胸にしまったままだが、線だけが頭の中で鮮明だった。 「でも、なんでこんな場所に」 「洪水を逸らすためだろうな。表の弁が止められても、手で開けられる逃げ道を残してる」 千尋が舌打ちした。 「逃げ道って言うには、ずいぶん意地が悪い設計ね」 「意地が悪いから、見つけづらい」 曲がり角を抜けるたび、管の奥から低いうなりが押し寄せる。切られた配水のせいで圧が乱れ、都市そのものが歯を食いしばっているみたいだった。悠斗は立ち止まりかけたが、千尋が肩を叩く。 「止まらない。今は読めたんだから、行くしかない」 「分かってる」 そう返しながらも、胸の奥では別の感覚が膨らんでいた。楽譜の最後の小節に潜んでいたのは、ただの位置情報じゃない。誰かが隠したかったものを、わざわざ音に埋め込んだ痕跡だ。 「これ、最初から見つけさせるつもりだったのかも」 「誰が」 「分からない。でも、都市のうなりはずっと鳴ってた。気づくのを待ってたみたいに」 千尋は一瞬だけ黙り、それから前を向いた。 「なら、待たせた分だけ急ぐわよ」 樋門の奥へ続く扉の前に、手動弁の札が見えた。悠斗は息を吸い、音符帳を開き直す。図の最後の印は、確かにそこへ重なっている。 「ここだ」 「間違いない?」 「間違いない。洪水を逃がすなら、ここしかない」 二人は顔を見合わせた。迷っている暇はなかった。悠斗は弁へ手を伸ばし、冷えた金具の感触を確かめる。千尋も隣で体勢を低くした。 「行くぞ、千尋」 「ええ、悠斗」 その呼びかけが終わるより先に、通路の奥からさらに重い水音が押し寄せてきた。二人は同時に振り向き、次の瞬間へ身構えた。
水都脈動譜
全年齢小説ID: cmnepu0wq000601nws8diib3v
