着任の日、海は思っていたより近く、空は思っていたより低かった。青く開けているはずの景色は、島に降り立った真鍋遼にとって、どこか逃げ場のない円形の壁のようでもあった。本土の基地で覚えた手順や数値は頭に入っている。けれど、潮の匂いを含んだ風が吹くだけで、機体の金属まで別の生き物のように見えてくる。 離島の診療所に併設されたヘリポートは小さく、白線の端にはすぐ背の低い草むらがあり、その向こうで海が鈍く光っていた。ドクターヘリの新人整備士として赴任してきた遼の仕事は、点検と整備、そして飛ばすための準備を完璧に整えることだ。だが島では、機械だけ見ていればいいわけではないと、初日のうちに思い知らされた。 診療所の看護師は、足の悪い老人の通院が天気ひとつで途切れるとこぼし、事務長は夜間に本土の病院へ搬送できるかどうかで眠りが浅いと笑った。港で荷を下ろしていた男は、救急車より先に軽トラックが走ることもあると言った。どの言葉も冗談めいていたが、遼には冗談に聞こえなかった。 夕方、格納庫の工具を並べ直していると、無線室の窓に灯りがともった。挨拶に行け、と診療所の医師に言われ、遼は細い渡り廊下を歩いた。室内には機械の低い唸りと、紙をめくる乾いた音があった。机の前に座る男は五十代半ばほどで、日に焼けた首筋と節くれだった手が先に目に入る。 「整備の人か」 それだけ言って、男は視線を計器から外さなかった。名を海老原というらしい。島の通信を預かる無線士で、必要なときだけ必要なだけ話す、という種類の人間に見えた。 「真鍋です。今日からお世話になります」 遼が頭を下げると、海老原は小さくうなずいた。 「風向きは夕方から変わる。塩が回る前にカバーを見とけ」 歓迎の代わりがそれだった。だが遼は、むしろ助かった。気の利いた言葉より、現場の言葉のほうが受け取りやすい。急いで格納庫へ戻り、機体を見回す。たしかに海側から吹き込む湿った風が、昼とは違う重さを帯びていた。 翌日から遼は島の癖を覚え始めた。朝は穏やかでも午後には雲が湧くこと、舗装の端に砂がたまりやすいこと、部品の手配には本土よりひと呼吸遅れがあること。何より、人の暮らしが天候と距離に深く結びついていることだった。 無線室に顔を出すたび、海老原は短くしか話さない。それでも遼が機体の運航に必要な気象の傾向を尋ねると、島の岬ごとの風の癖や、雨雲が山に引っかかる順番を地図に鉛筆で書き込んでくれた。元は漁師だったと人づてに聞いた。海を見れば、明日の機嫌が少し分かるらしい。 「覚えること、多いですね」 遼がこぼしたとき、海老原は初めて少しだけ笑った。 「海は教科書どおりじゃない。だが、同じ顔もする」 その言葉の意味を、遼はまだ半分も理解できなかった。ただ、黙って差し出された湯のみの温かさが、島で初めての小さな足場のように思えた。 日が落ちると、集落の灯りは指で数えられるほどしかない。暗さの向こうに海が広がっていると考えるだけで、遼は胸の奥が静かにざわついた。それでもヘリポートの脇に立ち、風に耳を澄ます。遠くで無線のかすかな声が混じる。 この島では、空を飛ぶための整備も、声をつなぐための通信も、どちらも誰かの明日に直接触れている。その事実だけが、着任以来の心細さをゆっくりと形のある責任へ変えていった。 無線室の窓には、今夜も灯りがともっていた。遼は一度だけそこを見上げ、工具箱の留め具を確かめる。ぎこちないままでも、ここで働く者同士として、少しずつ手の届く距離になれる気がした。島の夜は深かったが、闇の中には、まだ消えていない光があった。
嵐夜を継ぐ無線士
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