夜半すぎ、島じゅうの雨戸を揺らすような風の唸りで、遼は宿舎の浅い眠りから引きずり起こされた。窓ガラスに叩きつける雨は、粒ではなく一枚の布のようで、外灯の明かりさえ白くにじんでいる。胸騒ぎに急かされるまま診療所へ向かうと、渡り廊下の先の無線室だけが、嵐の底で目を開けているように明るかった。 海老原は受話器を肩に挟み、記録用紙に素早く数字を書きつけていた。机の上のスピーカーから、砂を噛むような雑音の合間に、途切れ途切れの声が漏れる。男か女かも分からない、押し潰された息のような救難信号だった。 「沖だ」 海老原は短く言い、周波数を細かく合わせた。 「だが、波に食われてる。長くは持たん」 遼は反射的に時計を見た。出動があるなら、整備士の仕事は即座に始まる。格納庫へ走り、機体の外板、燃料、固定具、灯火を確認する。懐中電灯の光が機体の腹を滑るたび、吹き込む風がつなぎの裾を鳴らした。訓練で覚えた手順をなぞりながらも、今夜ばかりは数値の向こうに、見えない海が口を開けている気がした。 診療所では当直医と看護師が搬送用の資材を揃え、消防団にも連絡が回された。港では漁協の詰所に灯りがつき、何人かが合羽のまま集まり始めているという。けれど肝心の発信源が定まらない。信号は一度強まり、座標の断片らしき数字を吐き出しかけて、次の瞬間にはすべてを嵐に攫われた。 無線室に戻ると、海老原は島の海図を広げていた。岬の名、暗礁の印、潮の筋。年季の入った指先が、その上を迷いなく移動する。 「この風向きで、あの強さの切れ方なら南の瀬じゃない」 独り言のように呟き、鉛筆で一点を叩く。 「声が痩せてた。湾の内側まで入れてない。だが完全な外海でもない」 遼には理屈の半分も分からなかった。それでも、ただの勘ではないことは分かる。海老原の顔には、計器だけを見ている者の目ではなく、暗い海面の起伏を記憶の内側で見ている者の緊張があった。 「ヘリは上げられそうですか」 遼が問うと、海老原はすぐには答えなかった。代わりに窓の向こうの闇へ耳を澄ませるようにしてから、低く言った。 「飛ぶかどうかは医師と運航判断だ。だが、飛ぶなら待てる時間は長くない」 その言葉は命令ではなかったが、遼の背筋を真っ直ぐにした。彼は再び格納庫へ戻り、予備灯の点検をやり直し、濡れた床で足を取られぬよう導線を確かめた。ひとつ整えるたび、嵐の中に細い道を引いていく気がする。役に立てることは限られている。それでも、飛べる可能性を一分でも多く残すのが自分の役目だ。 やがて港から連絡が入った。沖に出るのは危険だが、地元の船なら近場の入り江を当たれるかもしれないという。消防団は海岸線の見回りを始め、診療所では受け入れ体制を固める。小さな島のあちこちで、眠っていた灯りが次々にともっていった。 その最中、無線が一瞬だけ息を吹き返した。短い、ほとんど悲鳴のような音。海老原は身を乗り出し、遼も思わず扉口で足を止める。だが次の瞬間、雑音はふっと途切れ、部屋には機械の低いうなりだけが残った。 沈黙のなかで、海老原はゆっくり目を閉じた。そして海図の北東側、島影と潮流が複雑にぶつかる小さな入江の近くに、新たに印をつけた。 「たぶん、ここだ」 その声は確信と不安を同じだけ含んでいた。遼は濡れた手袋を握りしめる。まだ誰も助けに辿り着いていない。だが島全体が、見えない一点へ向かって体を起こし始めていた。嵐はなお強く、夜は深い。それでも今は、闇の広さより、つながろうとする人の動きのほうがはっきり見えた。
嵐夜を継ぐ無線士
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