エラベノベル堂

検疫線上の飢作圧

全年齢

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10章 / 全10

三週間後、港の春先の風はまだ冷たく、検査棟の蛍光灯は朝から白く乾いていた。再調査の結果、天城アグリフーズの案件は正式に差し止めとなり、審査基準の運用も改められた。削られていた現場所見は独立した必須項目となり、修正履歴は外部監査と自動連携されるようになった。港の誰もが、あの件を境に目の使い方を覚え直していた。 だが、結人の机に積まれる書類は減らない。むしろ増えていた。別名義、別区分、別の救済策。飢えが続く限り、都合のよすぎる植物も、都合のよすぎる理屈も絶えない。真鍋が苦い顔で笑う。 「ひとつ塞げば、別の顔で来るな」 「来るなら、そのたび見るだけです」 答えながら、結人は自分の声が前より静かになっているのを感じた。怒りが消えたわけではない。ただ、怒りだけでは境界は守れないと知ったのだ。 昼前、篠崎から届いた報告には、除去区画の土壌回復がさらに進んだとあった。在来豆類の根が少しずつ土の深い層へ戻り、偏っていた菌相も揺り戻しを見せている。佐伯からも、畑の一角で麦の背丈が揃い始めたと写真が送られてきた。失われたものは大きい。それでも土は、完全に黙ったわけではなかった。 その日、結人は新任向けの簡単な引き継ぎを任された。記録の残し方、保留判断の基準、違和感の言語化。若い職員たちは熱心にメモを取っていたが、一人がふと尋ねた。 「榊原さんは、あの件で港を守った人なんですよね」 結人は少し考え、それから首を横に振った。 「守れたかどうかは、まだ先で決まる。止めたかったのは植物だけじゃない。見ないで済ませる癖のほうです」 午後、抜き取り検査に回された新しい苗のケースを開けたとき、結人はわずかに眉を動かした。問題はない。少なくとも今の書類と現物に齟齬はない。だが培地の片隅に、見覚えのある銀緑の糸のような芽が一本だけ混じっていた。極小で、注意しなければ土の繊維にしか見えない。結人は無言でピンセットを取り、サンプル袋へ移した。 真鍋がのぞき込み、低く言う。 「残り種か」 「たぶん」 結人はそう答えたが、胸の奥では別の考えが立ち上がっていた。天城の案件は止まった。制度も変わった。けれど、港に残ったのは過去の痕跡だけではないのかもしれない。あれほど広がったものが、企業の計画の終わりと同時に消えるはずがない。 夕方、彼は単独で保管ヤードの端まで歩いた。排水溝の格子、コンクリートの継ぎ目、岸壁へ続く細いひび。そのいくつかに、ほとんど光を吸わない小さな銀緑が、すでに港の風景の一部みたいな顔で伏していた。踏めば消えるほど弱く見えるのに、踏まれてきた場所ほど根を伸ばしている。 結人はしゃがみ込み、記録端末に新しい案件番号を打ち込んだ。終わった話ではない。告発が勝ったのでも、正義が悪意を完全に追い払ったのでもない。ただ、境界線の本当の位置が、ようやく見えるようになっただけだ。 汽笛が鳴り、夜の船がまた一隻、港へ入ってくる。結人は立ち上がり、白い灯りの中へ戻った。救われた未来ではなく、守り続けなければすぐ別のものに書き換わる未来が、検査台の向こうで次の荷を待っていた。

検閲済みプロット

国境沿いの検疫港を舞台に、植物検疫官の主人公が『合法だが生態系や地域経済に深刻な影響を及ぼしかねない外来種取引』の実態を追跡し、食料危機の背景にある企業の不正と制度の隙間を明らかにしていく社会派サスペンス。

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