雨上がりの深夜二時、大型書店の自動ドアは昼間よりも静かに客を飲み込む。明るすぎる照明の下で、棚だけが規則正しく眠れずに立ち続けていた。新しく配属された榊原真白は、まだ制服の襟の固さに慣れないまま、返本用の台車を押して文芸棚と実用書棚のあいだを往復していた。二十四時間営業のこの店では、夜にも昼と同じだけ仕事がある。ただ、人の声だけが薄くなる。そのぶん、本のこすれる音やレジの電子音が妙に耳に残った。 真白が配属初日に店長から告げられた仕事は、品出しでもレジでもなく、閉店のない店だからこそ深夜にだけ開く小さな窓口だった。名札のないバックヤードの端、休憩室の向かいにある古い応接机。そこが返品本の相談室だと教えられたとき、真白は冗談かと思った。 返品ならカウンターで受ければ済む。しかし店長は、困ったように笑って言った。 ここには、返品理由をうまく言えないお客さんが来るんだよ。本が悪いわけじゃないのに持っていられないとか、読み進めると息が詰まるとかね。規則の外だけど、話だけは聞くことにしてる。 曖昧な説明だった。それでも夜更けの店には、曖昧なもののほうが似合う気もした。真白は大学を出てすぐこの店に入った。人と話すのは得意ではないが、本の背表紙を整える時間は落ち着いた。だから相談室も、せいぜい返金できない事情をやわらかく伝える役目だろうと考えていた。 最初の客は、午前三時過ぎに現れた。薄いコートを着た女性で、料理本を一冊、両手で抱えるように持っていた。まだ新しいその本は、角も折れていない。女性は椅子に座るなり、返品できますかではなく、手放してもいいでしょうか、と言った。 真白は一瞬だけ返答に詰まり、それから購入時期や状態を確かめた。形式上は返品不可に近かったが、女性は結果を急いでいない様子だった。ただ、ページを開くたび台所の匂いがする気がすると、独り言のように続けた。誰かと食べるつもりで買ったのに、一人分の鍋しか使わなかったから、と。真白は規定どおりの説明をしつつ、最後には買い取り処理という形で本を預かった。女性は小さく頭を下げて帰っていったが、机の上には言い切れなかった言葉だけが残ったようだった。 そんな客が、毎晩ひとりかふたり訪れた。旅の本、育児書、資格試験の問題集、詩集。返品の理由はばらばらなのに、どの本にも持ち主が置き去りにできなかった気配があった。真白は次第に、相談室が本そのものより、本に触れた時間の始末をつける場所なのだと知っていった。 異変に気づいたのは、配属から一週間後のことだった。不審火のニュースが街で続いていた夜、真白は相談室から戻った返品本の検品をしていた。古びた地方史の本をぱらりと開いたとき、紙のあいだから細長いメモが滑り落ちる。レシートではなく、罫線のない紙片だった。そこには黒いペンで、短くこう書かれていた。 火は窓から見ている。まだ三つめ。 意味はわからない。それでも胸のどこかが冷えた。ここ数日のニュースで聞いた、夜半の倉庫火災、空き店舗のぼや、川沿いの古い家屋の半焼。その断片と、ひどく噛み合う文だったからだ。真白はとっさに本の奥付を見た。購入店舗は確かにこの店、しかも不審火があった地区に近い住所の会員登録が残っている。 誰かの悪趣味ないたずらかもしれない。そう思おうとしたが、紙片にはふざけた軽さがなかった。むしろ、言葉を削りすぎて助けを呼べなくなった声のようだった。バックヤードの蛍光灯が白く鳴り、店内放送が新しい時間を告げる。真白はメモを手のひらに載せたまま、相談室の机を振り返った。あの場所には、まだ自分の知らない役目があるのかもしれない。そう考えた瞬間、無人のはずの廊下の向こうで、返却用ワゴンの車輪がひとつ、かすかに軋んだ。
深夜書店 返品本相談室
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