その夜から真白は、返品本をただ状態確認するだけではなく、紙のあいだに残されたものを丁寧に拾うようになった。栞、買い物の控え、走り書きの献立、読みかけのページに引かれた薄い線。ふつうなら捨ててしまう些細なものが、相談室では妙に重さを持った。 次に見つかったのは、園芸入門書にはさまっていた付箋だった。植え替えの項目に貼られたそれには、移すなら根を傷つけないように、と印刷された説明とは別に、青いボールペンで、急がせるからだめになる、とだけ書かれていた。さらに数日後、建築写真集の見返しには、ガラスは外から光る、内側は見えない、という一文が残っていた。どれも独り言のようで、しかし最初のメモと同じく、何かを目撃した者の息遣いがあった。 真白は返品受付の伝票をさかのぼり、購入履歴と会員情報を照らし合わせた。深夜の事務室で画面を追ううち、ひとつの偏りが浮かぶ。不審火が起きた川沿い、古い商店街、取り壊し予定の倉庫街。その周辺で買われた本が、相談室を経由して何度も戻ってきていたのだ。しかも分野は無秩序に見えて、土地、住まい、料理、植物、家族の記録と、暮らしの輪郭に触れる本が多かった。 休憩中にその話をすると、同僚の野上はパンの袋を片手に首をかしげた。たまたまでしょ、この辺いま再開発で人の出入り多いし。店長も帳票を見て、考えすぎると眠れなくなるよ、と苦笑した。だが偶然にしては、同じ棚から同じ種類の本ばかりが夜の相談室へ流れ着く。 気になった真白は、返品本の中に挟まっていたレシートの日付を地図に写した。不審火の発生日、その前日、そのさらに数日前。点と点はきれいには結ばれない。それでも、火事のあった場所の近くで購入された本ほど、書き込みが切実になっていくように見えた。火は窓から見ている。急がせるからだめになる。内側は見えない。ばらばらの言葉が、同じ壁を別々の方向から叩いているようだった。 ある午前四時、相談室に年配の男性がやって来た。持っていたのは郷土史の増補版で、真白が最初のメモを見つけた本とよく似た装丁だった。男性は椅子に座らず、机に本を置いたまま、この店は昔の地図を置いているかと尋ねた。あります、と答えると、男性は少し安心した顔をして、それならよかった、とだけ言った。返品の理由を聞いても、読めなくなったから、としか返らない。だが受け取った本を開くと、巻末の白紙ページに鉛筆で薄く線が引かれていた。古い用水路の跡をなぞるような、頼りない一本線だった。 真白はその線をコピーし、売場の地域資料コーナーで現在の地図と見比べた。用水路はもう埋められ、今は駐車場と細い路地になっている。その先にあるのは、ぼやが起きた空き店舗、半焼した家屋、そして再開発の説明会でもめている一帯だった。 誰かが脅しのために火を使っているのか。それとも火事そのものとは別に、見えなくなる何かを知らせようとしているのか。真白の中で、相談室は返品の窓口ではなく、声にならない通報の集積所に変わり始めていた。言葉をまっすぐ出せない人たちが、本を借りて紙の陰に隠し、ここへ流している。そう考えると、これまでの客たちの視線の揺れも、妙に胸に残る沈黙も、ひとつの形を帯びる。 夜明け前、売場を巡回していた真白は、地域資料の棚に一冊だけ背の向きが逆になった本を見つけた。直そうとして引き抜くと、ページのあいだから新しい紙片が落ちる。今度は鉛筆で、にじむほど強くこう書かれていた。 四つめは、燃える前に見つけて。水の通り道を見て。 店内放送が五時を告げる頃、真白はその紙片を握りしめたまま、まだ開店前の窓の外を見た。街は灰色の朝にほどけかけている。けれど自分だけが、夜の途中に取り残されている気がした。
深夜書店 返品本相談室
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