真白が書き上げた記録は、報告書というより、夜のあいだに散らばっていた息づかいを順番に並べた文章だった。旧用水路の線、漏水と異臭の記録、ぼやの位置、住民と工事側の証言、返品本に残された言葉。そのどれも単独では曖昧だが、重ねると、長く放置された危険と、互いを疑うしかなかった人々の経緯が浮かび上がる。責任の押しつけ合いではなく、見落としの積み重なりとして示したことで、再開発会社の担当者も、防災課の職員も、ようやく同じ紙を見て話し始めた。 夜明け前、真白たちは共同倉庫へ向かった。古い扉の前には、消防と区の担当者、年配の男性、若い担当者まで集まっている。倉庫の床下を調べると、埋められた水路から逃げきれなかった湿気と、傷んだ配管まわりの空気が淀み、小さな火でも広がりかねない状態だった。さらに壁際には、焦げた紙皿と古い雑誌の切れ端が見つかった。大きな事件になる前に止められたと知った瞬間、誰かが小さく息を吐いた。 年配の男性は、もう合図はいらないな、と呟いた。若い担当者はその言葉にうなずき、今度は立ち退きの話と安全確認を分けて進めますと言った。防災課の職員も、過去の苦情の扱いを見直すと約束した。誰か一人が頭を下げて終わる形ではなかった。遅すぎても、ようやく言葉が本来の行き先へ届いたのだと真白は思った。 その数日後、相談室は店の正式な業務として認められた。派手な告知はない。ただ、バックヤードの扉の横に新しい札が掛かる。返品本相談室。返品に限らず、お預かりします。短い文なのに、真白には店の輪郭が少し変わったように見えた。本を売る場所でありながら、読み終えられなかった気持ちや、言いそびれた声まで受け止める場所になる。前任者が机の引き出しに残した願いは、ようやく表へ出たのだった。 店長は手続き書類を片づけながら、これで君も一人前だね、と笑った。野上は、書店って棚より人のほうが複雑なんだな、と缶コーヒーを差し出してくる。真白は受け取り、少しだけ笑う。ここへ来たばかりの頃は、背表紙を整えているだけで十分だと思っていた。けれど今は、本は誰かの気持ちをしまう箱であり、別の誰かへ渡す橋にもなるのだと知っている。 その夜、開店から何度目かの深夜二時。相談室の灯りを点けた真白は、新しい受付ノートを開いた。最初の頁には、前任者の古い言葉をまねる代わりに、自分の字で一行だけ書く。 話を捨てる前に、ここへ置いてください。 書き終えて顔を上げたとき、自動ドアの向こうに見慣れたコートの女性が立っていた。料理本を手放した、あの最初の客だった。真白はどうぞ、と声をかける。女性は少し迷ってから、今度は一冊の薄い日記帳を抱えて席に座った。 火事は止まり、相談室は続いていく。事件の結末は、何かが燃え尽きることではなく、燃やさなければ届かないと思い込まれていた声に、別の行き先ができたことだった。棚の向こうで本の背表紙が静かに並ぶ。真白は次の夜もまた、机の上に小さな明かりを灯し続ける。
検閲済みプロット
24時間営業の大型書店で、深夜の静かな時間帯にだけ開く“返品本の相談室”を任された新人店員が、本に挟まれた匿名メモを手がかりに、街で続く不審火騒ぎの背景に迫っていく現代ミステリー。
