説明会のやり直しが決まってから三日後、街は不思議なくらい静かだった。ニュースはもう不審火を大きく取り上げず、店でも話題にする者は減っていた。けれど真白には、その静けさが終わりではなく、息を潜めた途中に思えた。相談室の机には、新しく届いた本が二冊置かれている。一冊は児童向けの水辺図鑑、もう一冊は再開発を扱った薄い新書だった。どちらにも返品理由は書かれていない。ただ、水辺図鑑の用水路の頁に、青いインクで小さく、流れを戻さなくても、逃がしてほしい、とあった。新書の見返しには、責任者を決めると皆黙る、とある。 真白はそれを読み、これまで集めた声の輪郭がさらに広がるのを感じた。異変を訴えていたのは立ち退きを迫られた住民だけではない。工事を急がされた作業員、板挟みになった担当者、危険に気づいても報告の順番を待たされた人たち。匿名メモの書き手が複数だとわかった時点で、真実はひとつでも、立場はひとつではないと知ったはずだった。誰か一人を悪者にすれば話は早い。だがこの件は、そうやって整理した瞬間に、また見えなくなる。 店長は昼の引き継ぎ前、正式受付予定の札を見て言った。前の担当が残したかったのは、たぶん正しさより順番なんだよ。大きい声より、先に聞くこと。真白はその言葉を抱えたまま、夜を待った。 午前一時過ぎ、相談室に再開発会社の若い担当者が現れた。スーツの襟は乱れ、手には何も持っていない。座るなり、謝りに来たわけじゃないんです、と言って苦く笑った。謝る相手が多すぎて、言葉の置き場がわからないんです。彼は資料を読んで初めて、過去の苦情が交渉記録に紛れて埋もれていたことを知ったらしい。安全確認の申請は上へ回る前に止まり、住民の感情的な抵抗として要約されていた。自分もまた、その要約だけを読んで現場を判断していたのだと。 同じ頃、別の入口から年配の男性も来た。互いの姿を見た瞬間、空気が張る。真白は机の上に、古い受付ノートと新しい二冊の本を並べた。そして、今は責任を決めるより、最後の一つを止めたいんです、とだけ言った。男性は眉を寄せ、担当者は視線を落とす。 最後の一つ。その言い方に、二人とも反応した。 真白は地図を開いた。これまでのぼやの地点、漏水、異臭、そして今夜返ってきた本の購入場所。それらは旧用水路の終点ではなく、途中の分岐を示していた。再開発区域の外れ、取り壊し予定から外された古い共同倉庫。皆が危険箇所は仮囲いの内側だと思い込み、外れた場所を見落としていたのだ。そこは、住民側にも工事側にも中途半端に管理が属し、誰も責任を明言しない建物だった。 やがて真白は気づく。匿名メモをひとつに束ねる作業は、犯人探しではなく、見落としの地図を描き直すことだったのだと。声が混ざっていたのではない。皆、同じ夜の別の断面を触っていただけだった。だから相談室は必要だった。断片を断片のまま捨てないために。 外は夜明け前の青さへ傾いている。真白は机の中央にノートを置き、関係者の言葉を自分の手で一行ずつ整理し始めた。過去の誤解、報告の滞留、危険な合図、見落とされた分岐。次の火を防ぐには、この街が何を聞き損ねてきたかを、誰にも逃げ道のない文章にするしかない。蛍光灯の白い明かりの下で、紙はもう黙っていなかった。
深夜書店 返品本相談室
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