エラベノベル堂

雪圧ダム 潜歴調査

全年齢

小説ID: cmnepuw9l000i01nwgtbk2q12

1章 / 全10

白樺ダム管理所の朝は、夜の続きのように暗かった。窓の外では、積もった雪が風に削られ、白い粉となって監視塔の灯りをかすめていく。暖房の効いた中央監視室にいても、冬の気配は計器盤の青白い表示を通してじわじわ入り込んでくる。相沢澪はマグカップのぬるくなったコーヒーを一口飲み、モニターに映る水位グラフへ視線を戻した。そこで彼女の手が止まった。  湖面標高が、また落ちている。  放流量に変化はない。流入量も昨夜から大きくは動いていない。それなのに、午前四時十三分を境にして、針で引いたような細い傾斜が現れ、三十分ほどで説明しづらい降下を示していた。ほんの数センチ。けれどダムの運用に関わる者にとって、理由のない数センチは、何も起きない一日よりもずっと気味が悪い。  澪は過去データを呼び出し、先週、先月、去年の同日を重ねた。似た波形がいくつも浮かび上がる。雪の多い年も少ない年も、決まって同じ日、同じ時間帯にだけ、水位は小さく息をつくように下がっていた。  背後で椅子の軋む音がした。宿直明けの主任、沼田が眠たげに目をこすりながら近づいてくる。  また見てるのか、と彼は言った。季節もんだよ。低温でセンサーが鈍ることはある。  でも、毎年同じ日です。澪は画面を指した。こんなふうに揃うのはおかしいでしょう。  おかしいことなんて冬場はいくらでもある。計器ってのは人間より気まぐれだ  そう言って沼田は、点検報告に添えるなら誤差範囲でいい、と軽く片づけた。澪は反論しかけ、飲み込んだ。この管理所では、説明のつかない現象はたいてい、説明しなくていい現象として処理される。  昼前、巡回に出る同僚たちを見送ったあと、澪は記録保管室に向かった。金属棚の並ぶ薄暗い部屋は、古い紙と乾いた埃の匂いがした。運用年報、点検日誌、障害報告書。背表紙の褪せた帳簿を順に抜き出し、例の日付を追っていく。近年の電子記録には波形だけが残り、特記事項はない。ならば、紙の時代はどうだったのか。  十年前、二十年前、三十年前。ページをめくるたび、同じ季節の同じ日付に短い記載が現れた。水位計再較正。外気温低下による一時的不安定。観測値に軽微な揺らぎ。文面は違っても、どこか申し合わせたように曖昧だった。  そして、四十八年前の綴じ冊子で、澪の指が止まった。  その年の一月の記録だけが、ごっそり抜けていた。破り取られたのではない。最初から挟まれていないような不自然な空白。前後のページ番号は続いているのに、その期間だけ日誌の筆跡も点検印も消えている。代わりに、別紙貼付と赤字で記されていた箇所には、肝心の別紙がなかった。  澪は胸の奥が冷えるのを感じた。外の寒さではない。長く雪に埋もれていたものの輪郭が、足元でわずかに軋んだような感覚だった。  保管室の小窓には灰色の空が見え、その向こうでダム湖は凍った鉛のように沈んでいる。毎年同じ冬の日にだけ起こる、水位のわずかな沈み。消された一か月。曖昧すぎる報告。偶然で片づけるには、静かすぎた。  澪は欠落した日誌の管理番号を手帳に書き写し、棚の最下段に押し込まれていた旧設備図面の箱へ手を伸ばした。調べるだけなら、まだ誰にも咎められない。けれど紙箱に触れた瞬間、彼女は直感していた。これは誤作動の話では終わらない。山の底で長い間閉ざされていた何かが、今年もまた、同じ時刻に目を覚ましかけているのだと。

1章 / 全10

TOPへ