旧設備図面の箱は、思ったより軽かった。中には青焼きの紙が数枚と、角の擦れた点検台帳が二冊だけ入っていた。澪は監視室に戻る足を止め、保管室の机でそのまま台帳を開いた。現在の放流設備とは別に、湖底近くを迂回する旧導水路と緊急排水門の記載がある。完成から十数年で閉鎖、理由は老朽化対策。だが閉鎖工事の欄だけ、やけに記述が短い。使用停止確認、封印完了、異常なし。その三行で、ひとつの設備が地図から消されていた。 翌日の休み、澪は麓の集落へ下りた。雪に埋もれた商店街は人影もまばらで、昔からある雑貨店の軒先に干された灯油缶だけが赤く目立っていた。店番の老女にダムの昔話を尋ねると、最初は曖昧に笑っていたが、旧管理道の名前を出した途端、手を止めた。 あの道は、冬になると誰も使わなくなったよ。昔、サイレンが鳴った夜があってねえ。 決壊ですか、と澪が訊くと、老女は首を振った。 決壊まではいかなかった。でも、山がうなったの。水と石が一緒に走って、下の作業小屋がのまれた。翌朝には、雪崩だったってことになったけど 語尾は湯気のように薄れ、それ以上は続かなかった。 同じような話は、他でも拾えた。川筋で暮らしていたという老人は、その冬だけ町役場の倉庫に避難した記憶があると言った。消防団にいた父が、口外するなと家族に念を押したとも。だが日付を尋ねると、皆そろって視線を外した。思い出せないのではない。思い出したくない顔だった。 管理所に戻った澪は、欠けていた管理番号を頼りに本庁の資料庫へ閲覧申請を出した。返答は早かった。対象資料は整理中につき閲覧不可。理由はそれだけで、問い合わせ先の内線にかけても担当不在を繰り返される。二度目の申請を送った日の夕方、所長に呼ばれた。 応接机の上には、彼女が複写を取った図面の控えが置かれていた。 仕事熱心なのはいいが、古い記録に深入りするな。 所長は穏やかな声で言った。現場は今の設備で動いている。過去の不完全な資料を引っ張り出しても、誤解を招くだけだ。 誤解かどうか、確認する必要があります。 澪がそう返すと、所長はしばらく黙り、窓の外の雪面を見た。 この職場には、触れないことで保たれてきたものもある。 その言葉は忠告というより、長く凍っていた扉の前に立つ者への、最後の引き返しの機会のように聞こえた。 数日後、澪の端末から古い運用記録へのアクセス権が外された。巡回のシフトは増え、単独の夜勤は外される。同僚たちは露骨に避けはしないが、話しかければ一拍遅れて返事をするようになった。沼田だけが、休憩室で缶コーヒーを置きながら小声で言った。 四十九年前、冬季点検中に人が消えたって話なら聞いたことがある。事故報告は見たことない。でも、あの日から毎年、水位が息をするって年寄りは言う なぜ黙っていたんですか。 澪の問いに、沼田は苦く笑った。 黙ってるうちに、みんな本当に何もなかった気になったんだろうよ その夜、監視室で一人、澪は再び波形を重ねた。青い線は毎年同じ時刻にわずかに沈み、まるで凍った湖の底で、見えない扉が今も少しだけ開いているようだった。公表されなかった事故。消えた記録。閉ざされた旧設備。点と点はまだ線にならない。それでも彼女には分かっていた。孤立は始まりにすぎない。隠されたものは、見つけた人間を必ず深い場所へ連れていく。
雪圧ダム 潜歴調査
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