四月の終わり、青葉高校の音楽室には、いつもの春とは少し違う緊張が漂っていた。全国大会の常連として知られる吹奏楽部は、その年、前任の顧問が異動し、新しく若い指揮者を迎えることになっていたからだ。三年生のクラリネット首席、朝倉澪は譜面台を整えながら、窓ガラスに映る自分の顔が思ったより硬いことに気づいた。名門と呼ばれる場所では、期待は拍手より先に重く降ってくる。 時間ぴったりに現れた新任指揮者の篠崎悠真は、想像していたよりずっと穏やかな声の持ち主だった。若い、と聞いていたが、実際に見ると部員たちと歳の差があまりないようにも見える。だが、指揮台に立った瞬間、その空気は少しだけ変わった。 「まず、みんなの音を聴かせてください」 挨拶も短く、篠崎は課題曲の冒頭だけを指示した。金管が芯を作り、木管がその隙間を埋め、打楽器が輪郭を与える。青葉らしい、よく整えられた音だった。演奏が終わると、篠崎は満足そうにうなずいたあと、不思議なことを言った。 「きれいです。でも、この音はたぶん、今みんなが思っている場所には届いていません」 部員たちは顔を見合わせた。何を言われたのか、すぐには飲み込めない。篠崎は指揮棒を置き、客席の図面を黒板に貼った。中央、前方、後方、左右の端。そこに矢印や丸をいくつも書き込みながら続ける。 「音って、同じ演奏でも座る場所で景色が変わるんです。前の席では輪郭が立つのに、後ろでは余韻が混ざって別の色になる。だったら最初から、その違いごと音楽にできるはずです」 最前列のトランペットが小さく息をのんだ。後方では誰かが椅子をきしませる。澪もまた、戸惑っていた。大会で求められるのは、どこから聴いても均質で、完成された演奏ではないのか。客席ごとに印象が変わるなど、そんな不安定なものを狙う理由がわからない。 その日の練習は、さらに奇妙だった。篠崎は部員をいくつかの組に分け、自分たちで音楽室の場所を移動しながら演奏を聴き比べさせた。澪はクラリネットを抱えたまま後方の壁際に立ち、同じ和音が中央で聴くのとまるで違うことに驚いた。中音域は思った以上に厚く、フルートは天井近くに淡くほどけ、ホルンは遅れて差し込む夕日のように柔らかく回ってくる。 「ね、変でしょう」 いつの間にか隣に来ていた篠崎が言った。 「でも、欠点じゃないんです。人によって届き方が違うなら、違うまま心に残る形を考えたい」 澪は返事に迷った。新しさに胸がざわつく一方で、青葉の積み上げてきたものを壊されるような怖さもあった。だが篠崎の目には、奇をてらう軽さではなく、音そのものを信じる人の静かな熱があった。 練習の終わり、彼は次の自由曲の候補譜を配った。既存の編曲にさらに手を入れるつもりらしい。客席の左右で旋律の受け渡しの印象が変わり、後方では和声の深みが立ち上がるように設計し直すという。 「勝つための工夫でもあります。でもそれ以上に、音楽を狭くしないための工夫です」 夕方の光が譜面の端を照らしていた。部員たちはまだ半信半疑のまま、その紙を見つめていた。それでも、音楽室に満ちる空気は朝とは違っていた。ただ正確に鳴らすだけでは触れられない、見えない客席へ向かって窓がひとつ開いたようだった。澪は譜面をめくり、まだ鳴っていない音の気配にそっと耳を澄ませた。
客席ごとの祝祭曲
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