「今日からお世話になります、朝比奈悠です」 音楽室に入った瞬間、空気が少しだけ固まったのがわかった。全国大会常連の白嶺高校吹奏楽部。並んだ譜面台の向こうで、部員たちの視線が一斉にこちらへ刺さる。誰もが楽器を抱えたまま、息を潜めていた。 悠は軽く会釈し、壁際のホワイトボードを見た。古びた五線譜、使い込まれたチューナー、整然と並ぶ椅子。どれも優等生の顔をしているのに、部屋の奥には、簡単には触れさせない空気があった。 「先に言っておきます。僕は、音が正面だけで完結するとは思っていません」 ざわり、と空気が揺れた。真ん中の列にいた男子が眉をひそめる。前列の女子が、隣と目だけで会話する。 悠はそれを見逃さなかった。 「客席が変われば、同じ演奏でも聞こえ方は変わる。だから今日は、まず全パートの音程と呼吸を一から確かめます」 「一から?」 低い声が飛んだ。部長らしい立ち姿の三年生が、腕を組んでいる。立花未來と紹介された名札が、胸元で小さく揺れていた。 「全国に行く部に、基礎をやり直せって言うんですか」 「はい」 即答だった。未來の目が細くなる。 「それ、私たちの音を否定してませんか」 「否定じゃない。確認です。皆さんの音は強い。だからこそ、どこまで本当に揃っているか、最初に見たい」 空気がさらに張りつめる。金管の方で、誰かがマウスピースを握り直した音がした。 悠は指先で机を軽く叩き、部員全員を見渡した。 「聴こえ方に差があるなら、その差も含めて使う。ですが、今はまだ武器にしません。まずは、同じ呼吸で立てるかどうかです」 「ずいぶん慎重なんですね」 未來の声は冷たい。だが、そこにあるのは敵意だけではなかった。試されているのだと、悠はわかっていた。 「慎重です。僕は、見えないものを勢いで押し切るのが得意じゃないので」 小さく笑った部員が一人いた。すぐに消えたが、その一瞬で室内の温度がほんの少し変わる。 悠は譜面を開き、チューナーの音を鳴らした。 「では、最初からいきましょう。息を吸って。今の音を、僕に聞かせてください」 誰かがまだ納得していない。それでも、楽器を構える音は少しずつ揃っていった。警戒は解けていない。けれど、沈黙だけで終わる空気でもなかった。 悠はその張り詰めた気配の中で、静かに指を上げた。
客席ごとの祝祭曲
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